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もしかしたら悲しみをもう思い出したくないのかもしれない


今日、お芝居を観た。

ご主人を亡くしてしまった女性の話。

多くの方が涙していたけれど、
私はどこか客観的にそれを見ていた。


お芝居が終わった後、
やり切った演者さんの清々しい笑顔に
胸をぎゅーっと掴まれ、
そちらの方への感動が大きかった。



「私の心は純粋さを失ったのかな?」

お芝居が終わってから自分を感じてみた。


この心はどうしたのかな?

お芝居の内容はどうだったのだろう?

私はどう感じたのだろう…?



そしてふと気づいた。



もしかしたら私は
大切な人を失った悲しみを
感じないようにしているのかもしれない。



私が21歳の頃、
2つ下の弟が亡くなった。

それから20数年。

2年前には
父が亡くなった。

2人とも自死だ。


数年前まで私にとって身近な人の死は
弟だけだったのに、
友人も何人か亡くなり、
父も死んだ。

思えば弟が亡くなった時から、
私は死というものにずっと敏感でいた。


亡くなった時もお葬式の時も
たくさん泣いた。

日常でも思い出しては涙する。


たくさんたくさん泣いてきた。



けれど、心底悲しめていないのでは?と
思うことがあり、今日もその感覚があった。



大切な人が死んでしまう作品に触れる時
私は彼らを思い出す。

けれどそんな時ほど
私の心はどこかへ行ってしまう。

もしかしたら私は、
もうその悲しみを思い出したくないのかもしれない。


苦しくて辛くて切なくて
寂しくてどうしようもなくなって
愛しい人達に
もう2度と会えないのに
会いたくなってしまうから。

しがみついて抱きついて
「お願いだから死なないでよ!」と
もう2度と伝えられないのに、
その願いは決して叶わないのに
叫び、伝えたくなってしまうから。

それが出来ないことがすごく辛くて
大好きな人達を失った悲しみを
思い出したくないのかもしれない。



でも私は悲しみたがっている。

もっともっと悲しみたい私を、
悲しんでいたい私を
私は私の心の奥に押し込めてしまっていた。


そしてそれに気づいてしまったから
涙が溢れてきた、ヤバい。

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