【短編】春が来てしまう(尚也の場合)

 朝。
 尚也がリビングに行くと、壁のカレンダーが3月になっていた。
「そうか。もう3月か」
思わず呟くと、キッチンにいた妻が
「あっという間ね」
と答える。
「もうすぐか
 外の景色はまだ冬だ。でもそういえば最近は天気予報が「今日は真冬日です」と言っていないかもしれない。
 もう少し冬でいてくれててもいいのに。
 
 今日の最高気温が十度です、と気象予報士が嬉しそうに話していた。
 今日は、尚也の娘の卒業式だ。
 娘の制服姿最後の日。そう思うと、尚也はもう泣きそうになる。ついこの前小学生になったと思ったのに、と。
 そういえば、自分もいつの間にか白髪が増えて最近は老眼が出てきたようだ。そうか。何も変わらないようでも着実に時間は過ぎているんだな。気持ちは十八歳の頃となにも変わらない気がするのに。
 寂しい。
 娘が大人になっていくことも、自分が大人になってしまったことも。
 尚也は一緒に来ている妻を見る。
 妻は娘を見つめていた。
 
 卒業式のあと、尚也は妻と二人で帰った。
 娘は友達と最後の制服を楽しむらしい。
 さっき撮った娘の写真を見て「大きくなったなあ」と思わず呟いた。
 妻が「そうね」と答える。
「寂しいよね。もうすぐ東京へ行ってしまうなんて。」
 妻は、優しい笑顔で頷く。
 妻がこういう表情をするときは何か心にひっかかることがあるときだと、尚也はこれまでの生活の中で理解していた。
 妻もきっと寂しいのだ。娘が自分を置いて成長していくことが。自分が大人になってしまったこととか。
 
 夜。
 皆でアルバムを見ていた。
 娘は飼い犬に話しかけている。
 娘が十二歳の誕生日に家にやってきた彼は、娘と本当に兄弟のように過ごしてきた。
 最近落ち着きがないのは、何かを感じているのかもしれない。
 変化は寂しい。寂しくて不安になる。
「いまさらだけどさ、なんで東京に行きたいと思ったの?」
 尚也は娘に聞いてみる。
「うーん・・・。なんていうか・・・。飛べない蚤になりたくないなって思って」
 蚤は蓋をした容器にしばらく入れられると、蓋を外してももう外へ飛ぼうとしないらしい。
「本当はどこえでも行けるのに。自分に蓋をする人生はいやだな」
 尚也は思わず頭上を見上げる。自分の上に蓋はあるだろうか?
 ふと妻を見る。妻も上を見上げていて、尚也は小さく微笑んだ。
 
 毎日の最低気温がマイナスにならなくなった。娘が東京へ旅出つ日になった。
 トラックが家の前に停まり、娘の荷物を積み込んでいく。
 飼い犬が落ち着かなくて、尚也だけが娘を空港へ送っていくことにした。
「忘れ物はない?」
 娘に声をかける。
「たぶん」
 娘は大きなバッグを車に積み込む。
 犬が一緒に乗ろうとして妻に止められた。
 娘が彼を抱きしめてお別れをする。
 妻も娘に声を掛ける。
「体に気を付けてね」
「うん。お母さん。行ってきます」
 娘が車に乗って出発すると、犬の遠吠えが聞こえた。
 
「お母さんさ、最近ちょっと期限悪くなかった?」
 しばらく車を走らせていると、娘がそう話しかけてきた。
「なんで?」
「なんとなく」
「寂しいんじゃない?お母さん」
「寂しいのになんで機嫌悪い感じなのかわかんないんだけど」
「うーん。自分以外の誰かが大人になっていくのは置いて行かれるのが寂しくて不安、って感じかな」
「お母さんはもう大人じゃない」
「お父さんの感覚的には、いつの間にか大人って呼ばれるようになってたって感じかな」
「どういうこと?」
「気持ちはさ、十八歳の頃とあまり変わらなくて。いつも何かが足りなくて、周りがずいぶん大人に見えて、なんとなく不安なんだ」
「・・・。」
「結婚して子供ができてやっと大人って肩書がふさわしい自分になれたかもって思っていたのに、子供は大人になっていって、そこでまた自分は思っていたほど大人じゃなかったことに気づいて不安にはる」
「私にはお父さんもお母さんもちゃんと大人に思えるよ」
「実は不安でいっぱいなんだよ、たぶん、みんな」
 娘は何か考えているようだ。
 尚也も改めて考える。言葉に出てきた自分の心の内側が、あまりにも少年っぽくて大人げないなと。そして、大人げなかったと恥じる程には大人だったなと。
「それってさ、友達に彼氏ができてちょっと置いていかれた気持ちに似てる?」
「(笑)そうかも」
「そんなこと言われてもって感じなんだけど」
「いいんだよ、それで。大人になっていこうとしていいんだ。お父さんやお母さんが置いて行かれそうで不安っていうのは、お父さんとお母さん自身の問題だからね」
 
 空港に着いて出発ロビーの前で娘を降ろす。
 ここでいいと娘に言われて尚也は苦笑する。
「じゃあね。お母さんと北都によろしくね」
「行ってらっしゃい。元気で」
 大きくてを振って娘は空港へと入っていった。
 尚也はもう見送ることしかできなくて、また不安になる。
 
 春が来てしまった。
 
                 終わり



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