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涙もろい「姐さん」の幸せの行方。


彼女をよく知る人たちは、男女を問わず彼女のことを「姐さん」と呼んでいる。

僕はなにせ歳上なので苗字でしか呼んだことはない。でも彼女がそう呼ばれる理由はよくわかる。

面倒見がよくて情熱家で、並外れた行動力の半面、意外に涙もろい人情派。そんな彼女はいまから十年ほど前、僕の前に単行本の執筆者として現れた。

それはハンガリーのスピリチュアリストに関する本だった。

日本のテレビでも紹介された評判の老女で、彼女のハンガリーの自宅まで取材に出かけ、すでに原稿も書き始めていた。老女の波乱万丈な人生を描き、誰もが幸せになれるヒントを盛り込んだ、ライト感覚な「啓蒙書」になるという。

編集長はこの企画を気に入り、担当として僕を指名したというわけだ。

執筆は順調に進み、撮り下ろしの写真を入れ、スピリチュアリストの料理レシピも付けた。本は予定通りに出版され、さほど大きなうねりにはならなかったが、まずまずの売れ行きを示していた。

そんな矢先、スピリチュアリストのマネージャーを名乗る男から連絡があった。

「こちらはなんの許可も与えていない。直ちに出版を差し止め、回収しろ」

そこから僕と「姐さん」の本当の付き合いが始まった。

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くだんのマネージャーはあくまで「私設」で、契約的にはこちらになんの落ち度もなかった。

しかしこの男、以後何度も長大な告発文章を書いて僕と彼女に送り付け、反論がなければ即刻ネットに公開すると息巻いた。

会社は重い腰を上げて顧問弁護士と相談した。出た結論は「徹底無視」だった。

そうは言っても男は追及の手を緩めない。いつしかネット上には彼女と僕の名前が明かされ、なのに会社は「出版契約にはすべてのトラベルの解決も含まれる」と、この件を彼女任せにする方針を打ち出した。

本来であればチームであるはずの僕と彼女のあいだに線引きがなされ、彼女は個別に弁護士を依頼しなければならないほど追い詰められてしまった。

男の執拗な攻撃はそれから1年近く続いた。その間、彼女は気丈に耐え、会社はそっぽを向き、僕は何冊か彼女に仕事を依頼して事の推移を見守った。

ある日、とあるイベントに彼女が出演すると、お客の中にあの男がいた。彼女は勇気を奮い起こし、男ににっこり笑いかけた。すると男は妙な顔をし、「もうわかったよ」というふうに席を立った。

それで、終わった。少なくとも彼女はそう僕に話してくれた。

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会社を辞め、勤め先を変えるうちに、なんとなく彼女に連絡をしなくなった。

それでも彼女が自分の事務所をたたみ、今度は単身フリーとして本当に自分の好きな仕事だけをしていることは知っていた。

そして数年前に結婚したことも。

僕が再び編集者になったと伝えると、誰よりも喜んでくれた。そして本当に久しぶりに会ってお茶を飲んだとき、彼女はこう言った。

「またお仕事ご一緒させてください。私、まだ立野さんにご恩返しできていないんですから!」

それはたぶん、僕のセリフじゃないかと思う。

とにかく僕はいま、彼女が将来必ず書くであろう壮大な小説の担当編集者として名乗りを上げている。

プロットはもらった。中南米エルサルバドルと日本を結ぶ、ひとりの少女の壮絶な家族の物語。

完成すれば、NHK朝のテレビ小説の原作になりうる傑作になるだろう。

「姐さん」の晴れの日を、僕はいまから楽しみにしている。

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