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私はクラリネット・ソナタ


「今年のクリスマス・イブはプレゼントの交換会をしよう」

彼にそう提案された。

ルールは簡単。2000円以内のものならなんでもなんでもオッケー。

食べ物でも本でも食器でも宝くじでも構わない。

私は彼に陶器のビールグラスをあげた。

彼が選んだのは、意外にも楽譜だった。

ブラームスのクラリネット・ソナタ第一番、へ短調。

私はうれしかった。クラリネットは私の生きがいだったから。

 

その日から、私は楽譜を開いて一生懸命練習した。

愁いを込めたメロディ。ずっと吹いていると心が締めつけられる。

苦しくて切なくて、逃げたくなる。

でも彼の顔を思い出して、今日もまた楽譜を開く。

食べることも寝ることも忘れて、私はその楽譜に没頭した。

 

ある日、気がつくと私はクラリネット・ソナタになっていた。

彼がくれた楽譜の中で、自分が吹かれるのを待っていた。

でももちろん、私は暗い部屋の中で置いてけぼり。誰も私に気づかない。

 

どれくらい時間が過ぎたのだろう。

大家さんが部屋の明かりをつけ、彼が最初に私を見つけた。

彼は哀しそうな顔をして、ただ静かに首を振っていた。

 

それから私は、部屋の片づけを任された業者さんの手で売りに出された。

最初にネットで買ってくれたのは、中学生の女の子だった。

先生のレッスンで指定されたから。でも彼女はブラームスが嫌いだった。

だって暗くて陰気で、楽しくないんだもの。彼女はちっとも練習してくれなかった。

私は彼女の部屋の本棚の中にずっとしまい込まれた。

 

大学生になった彼女が引越しをするとき、私は近くのごみ捨て場に捨てられた。

今にも雨が降り出しそうなある日、眼鏡をかけた大学教授が通りかかった。

「なんてこった。ブラームスが泣いとるぞ」

大学教授は私を拾い上げ、自分の研究室に連れて行った。

以来、教授は勉強に疲れると、机の中から私を取り出し、

三十年間愛用しているクラリネットで、私に命を吹き込んだ。

それはいつも途中で終わってしまったけれど、私は涙が出るほどうれしかった。

 

どれくらい時間が過ぎたのだろう。

教授は幸せな一生を終え、教会の裏の墓地に埋葬された。

式の最後に、教授の教え子である若い女性が、心を込めて私を吹いた。

吹き終わると、すぐに若い男が近づいてきた。

「お願いがあります。これから僕についてきてくれませんか。どうしてもこの曲を聴かせたい人がいるんです」

 

彼は彼女の手を取り、北に向かう新幹線に飛び乗った。

白い大地に降り立った彼が向かったのは、小さな病院だった。

たった一人の入院患者の前で、彼は彼女にクラリネットの演奏をお願いした。

彼女はうなずき、私を取り出して私のすべてを解き放した。

瀕死の彼の父親が、思わず目を細めた。

 

「やっと見つけたよ。そんなところにいたんだね」

年を取った彼はあの日のままの私を認めて、哀しそうに言った。

「でも遅かった。僕はもうじき、消えてなくなる」

「だったらこっちに来て。ここでいっしょに暮らしましょう」

彼は薄く笑い、目を閉じた。

彼の息子が泣き崩れ、彼女がその肩を優しく抱きしめる。

私はそのとき、喜びに震えた。

私の体の中に、彼の魂が潜り込んできたから。

 

たとえ楽譜が擦り切れても、もう二人が離れることはない。

私たちはクラリネット・ソナタになって、永遠に生き残る。

彼は顔をしわくちゃにして、私のそばでにっこり笑った。

 

(絵本を書きました。どなたか絵や音楽をつけてくれればうれしいです)

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