DiVaと『抱いて』と俊太郎さんの言葉。


DiVa(ディーヴァ)といってもAKB48から生まれたユニットではない。高瀬麻里子(ヴォーカル)、谷川賢作(ピアノ)、大坪寛彦(ベース)による「現代詩を歌うバンド」のほうだ。

ジャズ・ピアニストで映画音楽も多数作曲している谷川賢作さんは、詩人・谷川俊太郎さんの息子さん。自然、父親の詩による多くの曲を温めていた。「女性ヴォーカルで発表したい」ということで結成されたのがこのバンド。実はベースの大坪は僕の高校時代の友だちだった。

話はさかのぼる。高校のブラスバンド部の部長だった大坪(担当はユーフォニウム)が卒業後、ミュージシャンを目指して小倉で修行していると聞いたとき、僕らは「なに? なぜ誰も止めなかった!?」と憤ったものだった。
彼は高校二年で父親を亡くしていた。みんなでお葬式に行った記憶がある。長男である彼が、大学にも行かず(行ける頭はあったのに)、儲かりもしないミュージシャンを目指すとは何事だ! というわけである。

一年後、大坪は東京に出てきた。僕の下宿に泊まり込み、東京芸大を受験した。合格はしなかったが、彼は早稲田のモダンジャズ研究会に潜り込み(学生でなくても入部できたのだ)、最後はレギュラーまで務めた。四年で退部すると、今度は新宿の「カーニバル」というジャズの名門ライブハウスでボーイとして働き始めた。

社会人になっていた僕らは大坪を励ますという名目で月に一度はこの「カーニバル」に集まった。阿川泰子、中本マリ、日野皓正らを初めて生で聞いたのもここだった。自分の誕生日に「ハッピー・バースディ」を歌ってもらったこともある。そんな時代だった。

やがて大坪はカーニバルを辞め、細々とバンド活動をするようになった。「ライブがあったら聞きに行くよ」と僕らは熱心に言ったが、彼は恥ずかしそうに首を振るだけだった。

そんな大坪が「ぜひ聞きに来てよ」と誘ってくれたのがDiVaだった。

西麻布の小さなライブハウスで、はじめて「まこりん」の歌を聞いたとき、世の中にこんなに歌が上手い人が本当にいるんだと感激した。

加えてあの賢作さんのメロディ。粋で自由で、まるでドイツ・リート、シューベルトのようだと思った。

そこに世界に名だたる谷川俊太郎さんの詩である。僕はすっかりはまってしまった。

大坪のベースはまあ可もなく不可もなく。でももしかしたらこのバンド、大化けするかもしれない。僕はいろんな人に声をかけ、ライブがあるたびに足繁く通うようになった。

そんなある日の夜、僕は勤めていた雑誌編集部のデスクで、いつ来るとも知れない原稿を待っていた。

原稿はおそらく朝まで来ない。でも、ここにいないわけにはいかない。膨大な時間を前にして、僕はふとワープロで詩を書き始めた。

たしか三つ作ったと思う。できたらすぐ大坪にファクスした。返事は特になかった。

それから何か月かしてのライブ。「今日はサプライズがあるから」と大坪に言われた。もしかしたらという予感はあった。選ばれるとしたらあれだ。

予感は的中した。サンバのリズムに乗ってまこりんが歌い出した。


抱いて こわして メチャクチャに
抱いて つぶして グシャグシャに
抱いて よごして ベトベトに
抱いて はじけて サラサラに

そうでないとわたし 人と話せない
そうでないとわたし うまく笑えない
そうでないとわたし やさしくなれない
そうでないとわたし 生きていけない


目の前が真っ白になった。うれしくて涙が出そうだった。

大坪が作曲したこの『抱いて』という曲、なんと彼らのメジャーデビューアルバム『そらをとぶ』に収録されている。

そらをとぶ2

クレジットを見ると笑える。「谷川俊太郎 詩集『よしなしうた』より」とか「まど・みちお 『まど・みちお全詩集』より」などとそうそうたる詩人が名前を連ねる中、僕だけが「〇〇〇 書き下ろし」と書いてある。「誰なんだこいつ!」と思わず突っ込みを入れたくなる。

後日、俊太郎さんにこんなふうに言われた。

「これね、詩はてんでダメだけど、なにせ調子がいいんだ」

僕はいまだに最高の誉め言葉だと受け取っている。

DiVaは途中活動停止期間があったが、現在もアルバムを発表し、ライブ活動を行っている。

さすがに「もしかしたら天下を取るかも」という当時の勢いこそないものの、自分たちの目指す音楽の方向性をしっかり見据えた、大人のリートを作り上げている。

『抱いて』をライブでやることはもはやない。でもいまはいい夢を見させてもらったと感謝することしきりだ。

そして、いまだに自分の好きな道をこつこつと歩み続ける大坪の偉大さに、僕はもはや言葉もない。

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