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沖縄への思いはボクネンさんとの出会いがきっかけだった。


僕の父方の祖父は樺太の小学校の校長先生をしていたが、祖母は沖縄の写真館の娘だった。

共に出身は大分県中津市。それが樺太と沖縄に分かれて暮らし、お見合いで一緒になるというのだから縁とは不思議なものだ。

祖母の名前は覇那子(はなこ)。たぶん生まれてすぐに那覇市に移り住んだからだろう。

祖母が写っている写真を見たことがある。林の中で大柄な祖父に寄り添う痩せた女性。ふたりとも着物を着ていた。祖母は着物をどことなく着崩していて、なんともいえない色気を感じさせた。

そんな祖母の血を受け継いだのか、僕は大人になると沖縄という土地に強い憧れを抱くようになった。

その思いが決定的になったのは前の出版社時代。名嘉睦稔(なか・ぼくねん)という沖縄在住の版画家に出会い、友人の編集者とともに彼の創作絵本を二冊作ったのが大きな契機になった。

ボクネン

沖縄の風土に深く根差した、棟方志功ばりの木彫スタイルで熱心なファンを獲得していたボクネンさん。彼のことを最初に教えてくれたのは友人の編集者だった。

東京にもボクネンさんの個人ギャラリーがあり、何度かの打ち合わせののち、実際に沖縄に行ってボクネンさんとお会いすることになった。

沖縄本島のちょうど真ん中あたり、北谷町の海が見渡せるアトリエで初めてお会いしたボクネンさんの、その人間的オーラにまず圧倒された。これまでの作品はもちろん、実際の制作現場まで見せてくれた。創作絵本を二冊作ろうという話はその場で出たと記憶している。ストーリーは沖縄の民話のようなテイストで、判型はレコードジャケットのような正方形でと話はとんとん拍子に進んだ。

那覇のビジネスホテルを予約していた僕と友人は、打ち合わせが終わるとふたりで国際通りに繰り出した。

民謡酒場で飲み、屋台のソーキそばを食べ、翌日はひめゆりの塔と平和祈念公園に行った。完全な観光気分。でも沖縄のルーツみたいなものに触れて僕らは意気込んだ。「この絵本、絶対にいいものにしよう!」と。

妥協なく作りこんでいいものが出来上がった。紙にも装丁にも贅沢をして、結果的にブックフェアの装丁賞もいただいた。那覇でサイン会を開くこともできた。ボクネンさんのギャラリースタッフも一生懸命宣伝してくれた。でも売り上げはいまいちだった。

会社というのは非情なもので、販売部の連中なんか、売れないとわかると途端に手のひらをひっくり返した。「こんな絵本、見たことがないよ」とほめてくれるのは外の人ばかり。五木寛之さんがラジオで紹介してくれても、売り上げが伸びることはなかった。

しばらくはお付き合いが続いたボクネンさんとも、いつしか疎遠になってしまった。

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でも、僕の沖縄に対する思いはそれで尽きることはなかった。

たとえばそれは、今日みたいに偶然ランチについてきた沖縄そばを食べたときによみがえってきたりする。

土地の力は偉大だ。大地に根付いた味だったり習慣だったり、それは人の心のありようそのものを支配する。

沖縄で育ち、結婚して樺太で子どもを育てた祖母のように、僕もまた土地の力にあずかりながら生きていければと思う。

それが南であれ北であれ、根本は同じなはずだ。

新しい風に憧れながら、いま僕は東京の薫風の元で暮らしている。

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