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もし、パヴァロッティが生きていたら。


東京は第二波の襲来におびえる日々。世界を見回してもまだまだ新型ウイルスの脅威は収まるどころか拡大するばかり。

一方、野球やサッカーは観客を入れた試合がついに解禁された。海外でもプレミアリーグのリヴァプールは無観客の中、三十年ぶりの優勝を決めたばかり。大リーグも再開を決めた。スポーツ界は着実に復帰に近づいている。

しかし、クラシック界の先行きは暗い。特に発声を伴うもの、オペラや合唱はまったく目途が立たない。ウィーン国立歌劇場でさえ、少人数でのアンサンブル公演は再開したものの、大規模なオペラの上映はまだ予定が立たないのが現状だ。

まさかアンナ・ネトレプコやヨナス・カウフマンにマスクを着けさせるわけにもいくまい。どこのホールも定員が半減されるなか、そもそも合唱やオケを入れた総練習ができるハコを確保するのは至難の業だ。

いったいいつになったら僕らは「ラ・ボエーム」のロドルフォのアリア「冷たい手を」を聴くことができるのだろう。続くミミのアリアに胸を締め付けられ、ふたりが手を取り合う第一幕のフィナーレで「ああ、貧しいってなんて素敵なんだ」と思うことができるのだろう。

それで思い出した。もしいま、偉大なるリリック・テノール、ルチアーノ・パヴァロッティが生きていたら、彼はきっとこの状況を打破してくれたに違いないと。

パヴァロッティが亡くなったのは二〇〇七年。膵臓がんから腎不全を起こした。享年、七十一歳。ということは生きていたら今年八十四歳になる。さすがに舞台に立つことは難しいだろうが、天下に物申すことは十分可能だ。

アリーナ・ディ・ヴェローナの野外劇場でもローマのコロッセオでもいい。彼が声をかけ、お金を集めて、世界中のスター歌手によるオペラ復興のためのガラ・コンサートを開くのだ。レディ・ガガみたいに「すべてリモートで」なんてけち臭いことは言わない。オケが難しければテープでもかまわない。無観客でもいい。野外劇場のステージに歌手たちが次々と立ち、みなぎる美声を全世界に届ける。それだけで状況は劇的に変わるはずだ。

できれば最後は歌手たちが勢揃いして、ヴェルディの「ナブッコ」の合唱曲「行け わが想いよ 黄金の翼に乗って」を歌ってほしいのだが、まあ贅沢は言わない。いまは世の中にインパクトを与えることが重要なのだから。
で、こんな大役が担えるのはパヴァロッティしかいない。というか、彼がいないから、いまだにオペラ界は停滞しているのだ。

テノールならマリオ・デル・モナコやカルロ・ベルゴンツィ、ソプラノはマリア・カラスにレナ―タ・テバルディ、メゾはジュリエッタ・シミオナートとフィオレンツァ・コッソット、バリトンならティト・ゴッビかロバート・メリル。良くも悪くも、オペラ界はスター歌手のおかげで成り立ってきた。もちろんその図式はいまも変わらないが、往年の絶頂期と比べるとやや小粒であるというのが評論家たちの大方の意見だろう。

その中で、さまざまな分野のアーティストたちと交流したパヴァロッティはひときわ異彩を放っている。なにしろなにかのCMでジョン・マッケンローと大きなラケットを振り回してテニスをしていたんだから。

ラ・ボエーム

小学生の僕は彼が歌う「冷たい手」を何度も繰り返し聴いていた。FМ放送のエアチェック。カセットテープに吹き込んだそれは、かすれたような貧弱な音しか出なかったが、隙間風が吹き込むロドルフォの部屋を想像するにはぴったりだった。

パヴァロッティはまだデビューしたばかり。細面の美男子だった。なによりその線の細い繊細な声は、ナイーブなロドルフォそのものだった。

それからずいぶん経って、横浜アリーナで彼のお別れコンサートを聴いたことがある。超満員の観客を前に、マイクを使って歌っていた。オペラ歌手がマイクを使用したのは彼が初めてだったとか。ナチュラルに響くよう、何度も試行錯誤したらしい。それでも二階の奥の席にいた僕には声は届くものの表情までは皆目わからず、ちょっとがっかりした記憶がある。

今年の三月、僕は「冷たい手を」を人前で初めて歌った。

小さな教会で行われた門下生のソロ発表会。ミミ役の彼女はとても上手で、彼女と一幕最後の二重唱まで続けるのは大きなプレッシャーだったけれど、まあとにかくなんとか歌い切った。

歌を歌うということは人間の根源的な欲求だと思う。練習さえままならないいまの状況と比べると、あの三月の体験がどれほど貴重だったかが身に染みてよくわかる。

それもこれも、僕にとってはすべてパヴァロッティから始まった。

彼もきっといまの状況を草葉の陰で地団太を踏んで悔しがっているに違いない。

立ち上がれ、全世界のパヴァロッティの子どもたちよ。

マスクを外し、心置きなくホールで歌えるその日まで、彼の情熱を、その歌心を、決して絶やしてはいけない。

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