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ショパンのバラードが街にあふれるとき。


村上春樹は最新短編集の中で、古今東西のピアノ曲の中から一曲選ぶのなら、迷わずシューマンの「謝肉祭」にすると書いていた。その理由もちゃんと説明されていて、なるほどなと感心してしまった。僕ならどうだろう。心に浮かんだのはショパン。だとするとこれしかない。全部で四曲ある「バラード」だ。

とくに第一番ト短調作品23と第四番ヘ短調作品52がいい。

第一番は「さあ、これから語りますよ」的な決めフレーズから入って、すぐに人の心を揺り動かす感傷的なメロディの反復が始まる。さまざまな駆け引き、歓びと苦しみ、受容と諦めの果てに訪れる壮大なクライマックス。右手と左手が逆行する果てに天と地を突き刺す二つの和音が大地に響き渡る。まさにいま、幕が下りたという感じ。

第四番は夢うつつの中から静かに始まる。やがて現れるメロディはまさにメランコリーの権化。過ぎ去った時間を苦い涙とともに思い返す。愛する男女は過去と未来のはざまで激しく揺れ動き、天に上るかのようなプレストのコーダを迎える。最後の四つの和音はショパンが大好きだったものらしく、僕はいつも歌舞伎の「大見え」を思い出してパチパチと拍手を送りたくなる。

ペライア

CⅮは結構いろんな人のものを持っている。よく聞いたのはマレイ・ペライア。必要以上に感情に流されることはなく、知的でお行儀のいいショパンに可能な限り寄り添う演奏。

もっとおしゃれでエモーシャルなのはジャン=マルク・ルイサダ。彼の弾くロマン派のピアノはどれも僕のお気に入りだ。

キーシンのバラードはもっとゴリゴリの感情タイプ。でもちょっとぎこちない気もする。ポリーニは正統派すぎてあまり面白くない。

え、こんな表現あり? と面白さを追求するなら、断然コルトーがおすすめ。録音は古いけど、昔のパリの職人気質の匂いがプンプンする。たぶん、フランス人はこんなノリが好きなんじゃないかな。

意外だったのは河村尚子。次世代の女流ピアニストの筆頭である彼女だが、「ため」というか「こぶし」というか、けっこう「引っかかる」演奏をしていた。日本人らしいアクセントというのだろうか。それはそれで面白かった。

河村尚子

横浜市にある公共ホールに務めていたころ、ときおり若い人たちのための音楽コンクールに立ち会ったことがあった。

ピアノ部門、ヴァイオリン部門、そして声楽部門。ピアノ部門の自由曲で圧倒的に人気があったのがバラード第一番だ。

事務所を抜け出した僕は聴衆などほとんどいないホールの片隅にひとり座り、永遠と続くバラード一番の繰り返しにじっと耳をそばだてていた。

高校生の女の子、大学生の男の子、ちょっと疲れ気味の社会人の女の子。みんな、ものすごく真剣な表情で(当たり前だ)ピアノの前に座っている。僕はピアノを弾けないから、この曲がどれほど難しいのか、はっきりしたことはわからない。だけど、本当にこんなことをいうのは申し訳ないんだけど、どれもあまりぱっとした演奏ではない。にもかかわらず、僕は曲の最後が来るたびにいつもほんの少しだけ感動していた。

それは、この大曲に挑み、青春のかけがえのない時間を捧げてきた彼らに対する、僕の精いっぱいのリスペクトだったのかもしれない。

と同時に、どんな環境にさらされても一定のクオリティを保ち続けるショパンへの驚きと憧れでもあったのだろう。

ショパン

自分ではどうしようもないことに晒されたとき、押し寄せる過去の思いに流されてしまいそうなとき、僕は藁をもつかむ感覚で音楽に救いを求める。

でも、本当につらいときはクラシックなんて聴けない。昔流行ったポップスやフォークソングを無性に聴きたくなる。

僕がショパンを聴くのは、そう、暗闇の中にたしかな希望の光を見つけたときだ。

秋を迎えたこの街が、早くショパンの音楽で満たされればいいと思う。

それって素敵なことだと思いませんか?


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