高校時代、唯一のデートを思い出して。
先日、夜の地下鉄のホームに座って彼女とたわいのない話で盛り上がっていたとき、たまたま僕の高校の卒業写真の話題になった。
「あの写真、結構かっこよかったでしょ?」
「そうね、ジャニーズみたいだった」
「でもね、全然モテなかったんだよ」
すると彼女はしばし宙を見つめ、「それはね」と言った。
「モテる人って、どこか隙があるというか、色気みたいなものがダダ洩れしているんだと思う。あなたはきっと潔癖すぎたのよ」
正確じゃないかもしれないが、たぶんそんなことを言った。
僕は「そうかもしれない」とうなずきながら、高校時代唯一のデートを思い出していた。
あれは高校二年になる春休みだった。
同じクラスだったIさんを誘って、映画を見に行った。
スティーブン・スピルバーグの「未知との遭遇」。黒崎の三角公園の隣にある映画館。たぶんそこだ。
映画は素晴らしかった。だけど、どこで待ち合わせたか、見終わった後なにを話したか、そもそもどこかでお茶でも飲んだのか、残念なことにまったく覚えていない。
ただ、彼女を映画に誘ったときのことは鮮明に覚えている。
一年の三学期の期末テスト。科目は忘れた。たぶん国語か社会のはずだ。三十分過ぎたら、回答に自信のあるものは提出して退席していいことになっていた。僕は何度も答案用紙に目を通し、これ以上考えても仕方がないと判断しておもむろに席を立った。
いちばんで廊下に出る。窓からグラウンドが見渡せた。体育の授業をしているその様子をぼんやり見ていると、教室の後ろのドアがそっと開いた。
Iさんだった。彼女はちらりと僕を見ると、少し離れて同じようにグラウンドを見つめた。
僕は入学当時から彼女のことが気になっていた。
前髪ぱっつんのボブヘア。黒い髪と白い肌。男勝りの口をきき、あっという間にクラスのイニシアティブを勝ち取ったちょっと美人の女の子。もちろん成績は抜群だった。
当然のことながら僕は声をかける勇気もなく、このまま二年になって別々のクラスになるのかと思っていた矢先のことだった。
「あのさあ、Iって春休み、なにしてるの?」
どうしてそんなことが言えたのか、よくわからない。ただその長い廊下には僕らふたりしか存在せず、早くしないとまた誰かが出てくる可能性があった。
「別に、なにもないよ。部活にも入ってないし、ヒマしてる」
「だったらさあ、俺と映画でも見に行かない?」
「え? でもT君はあたしじゃなくて……」
「それはみんなが勝手に言ってるだけだよ。俺はIと行きたいの。ダメかな」
彼女は僕の横顔をじっと見ていた。僕は彼女の顔を見られず、ずっとグラウンドを眺めていた。
やがてまた教室の後ろのドアが開く音がした。僕の幸運もこれまでかと観念したとき、彼女がぼそりとつぶやいた。
「いいよ、あたしでよければ。また話そう」
そして彼女はにこりと笑い、その場を離れて新しく廊下に出てきた彼女の友だちのもとに走って行った。
それだけのことだ。それから僕と彼女は「未知との遭遇」を見て、そして別れた。それだけ。
二年になって男子クラスになった僕は、まったく女の子とは縁のない毎日を送っていた。
ある日、彼女の噂を聞いた。上級生の剣道部の主将と付き合っているという。彼女らしいな。素直にそう思えた。
それから何十年もたって、母校の同窓会で再会した。
彼女は独身で、地元で歯科医院を経営していた。結構にぎわっているらしい。当時の先生や同級生らが患者として通っているのだとか。なんともうらやましい限りだった。
もしあのとき、映画が終わった後で僕が気の利いたことが言えれば、そのとき僕がなんだか甘えた態度を示せれば、その先の人生はまったく違ったものになったのだろうか。
いや、たぶんそうはならなかっただろう。人と人の縁とはそういうものだ。
いま目の前にある縁をしっかり繋ぎ止めておきたい。
それが僕が過去の経験から学んだことだ。
追記 僕が高校生のときに買った唯一のクラシックレコードは、シューマンの「子どもの情景」。聴くといまでもあの頃の甘酸っぱい気持ちがよみがえる。マルタ・アルゲリッチの名盤です。
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