[短編小説] 虫

 この日の達也の寝起きは爽快だった。昨晩はいつもより早く寝ていた。いつもなら夜中に起きることがあるが、この日は熟睡をしていた。ちょうど、窓から太陽の光が差し込んで部屋中が広がっていた。いつもよりよく寝たなと思って気分が良かった。だが、目を開いた瞬間に違和感を覚えた。背中がベッドについてる感覚がない。身体を動かそうとしても起き上がることが出来なかった。彼はおかしいなと思った。

 首を動かして下を見てみると、足が八本あった。背中は甲羅で覆われており、まるで逆さまになった虫のようだった。彼は、自分が目覚めると同時に一匹の大きな虫になっているのに気づいた。声を出そうとしたが言葉がでてこない。話すことができなかった。

 彼は「どうしたらいいんだ?」と思った。身体を動かすことが出来ない。足の動かし方がわからなかった。彼は、じっくり考えて、人間のときと同じように意識を使って身体を動かそうとした。八本の足に対して、人間の腕を動かすときと同じように意識をする。異なる腕が八本あるだけだと。自分に言い聞かせる。振り返ってみると、赤ん坊のころは四本の足で歩いていた。それが八本になっただけである。意識を集中すると足の感覚を掴めてきた。少しずつであるが、動かせるようになってきた。

 ここまでの感覚をつかむのに、一時間半掛かっていた。彼は、寝ながら壁に掛かっている時計をみると、八時になっている。出社の時間が近くなっている。職場に行かなければならないと思った。彼は、足に意識を集中して感覚をつかもうと必死になる。八本ある足のひとつひとつに異なる意識を使って動かすことしていた。

 しばらくすると、彼は仕事に行こうとしている自分に驚いた。いまの自分は虫である。この状態で外に出て、電車に乗ることができるのかと疑問に思った。そもそも仕事ができる身体ではない。すると、急におかしくなった。

「俺は虫になったんだ。もうどうすることもできない」

 彼は、諦めた。今までの生き方では、何もすることが出来ないと思った。すると、彼の八本の足に動き出した。八本の足に対する意識をつかめて、自由に思ったように動かせるようになった。八本の足を勢いよく動かすと、甲羅が上を向き、彼は地に足をつけることが出来た。彼は身体を動かせるようになった

 彼は、奇妙な開放感を持った。俺は、虫になったんだ、もう労働はしなくていい、別に食べ物だって適当なものを食べればいい。太陽の光だけを浴びて、ぼけっとして生きていけばいいんだ、と思った。部屋中を自由に駆け回ると新しい自分になったようで心地よくなった。しばらくすると、部屋の中にいるだけではつまらないと思って外に出たくなった。

 彼の八本の足の先は小さな二本の指があった。器用に動かすことができるようになったあと、玄関のドアを開けて外に出た。

「自由だ。俺は自由になったんだ」

 心のなかで叫び、住宅街を歩き回った。すると、近所の人たちが騒ぎ出した。大きな虫が近所をうろちょろしているというのが噂が広まった。彼は、嬉しさのあまり動き回っていたが、気づくと周りには警察官一〇名ほどが彼を囲んでいた。銃を構えている。一人の警察官と目が合った瞬間、銃声が響いた。風が勢いよくなびいて、彼はひっくり返った。甲羅を背にして動けなくなる。視界が狭くなってくる。達也は、目を閉じた。


 目覚めると、べッドの上で身動きの取れない状態で寝ていた。達也は、首を動かしてみると、人間の姿に戻っていた。すると、ドアから一人の警察官が入ってきた。

「気がついたようだな。身体を動かせるようにしてやる」

 警察官は、彼を縛り付けているひもをほどいた。彼は、達也に視線を合わせる。

「麻酔銃で打っただけだから。一時的に身体を動かせなくしただけだ。近頃、虫になる人間が増えている。お前も、その犠牲になったのさ」

「そうだったのですか」

 達也は、ため息をつく。警察官は不思議そうに彼を見る。

「どうかしたか? 人間に戻れたのだから。もっと嬉しく思わないのか」

「そうですね……。人間に戻ったら、仕事をしなければなりません」

 彼は起き上がった。しょんぼりしながら、警察署から出た。空を見上げると、太陽の光がいつもより眩しかった。彼は、朝起きたときに虫になったことを思い返す。人間として生きていくのであれば、いっそうのこと虫になって解放的に生きていくほうがいいと思った。       了

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