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やもめ

 私の両親は仲が良かった。寡黙な父と社交的な母、そんな感じだったから何事も母が引っ張っていろんなことをしていた。
 父は母のすることを否定もせずよく付き合っていた。
 父は家の中で酒をよく飲んでおり外に飲みに出ることはなかったが後年母と連れ立ってよく飲みに出ていた。
 カカア天下とは違って見えていたが、父が締めるところは締めていたから側から見てお似合いの夫婦に見えていた。
 父と母は結構歳が離れており何か有るとすればお父さんだよねなどと碌でもないことを家族で話していた。
 母親主導でマイホームを作り母が好きにしているのを父はにこやかにみていたものだ。
 母がまだ40代半ばだったのだがである日仕事場に母が倒れたと連絡があった。
 運び込まれた病院に行くと意識のない母がベッドに横たわっていた。この時私はすでに医療関係の仕事をしており、医師のムンテラを一人で聞いていた。父はすでに聞いていたので母のそばにいた。
 頭部CT画像を見ながら説明を受けたのだが脳幹部に出血が私でもわかるくらい酷いものだった。
 この時母は助からないのは理解できてしまった。そして、ムンテラ中医師の前で声を上げて泣いてしまった。正直泣いたのはこの時だけだった。
 その後は挿管こそはされてなかったがルートをとられモニターをつけられてただ横になっている母の横に座っているだけだった。
 母は社交的だったからいろんな方が来てくれた。
 そうこうしているうちに親戚が集まり母を見舞っていた。
 この時正直な話、倒れている母を見てほしくはなかった。いつも快活な姿しか見せない人だったからそうじゃない姿は母も見られたくはないんじゃないかと思ったからだ。
 倒れて3日は持った。モニターの波形が伸びていきもうフラットになった。医師の死亡宣告があった。私に涙はなかった。
 そこからは率先して葬儀の手配や準備に動いた。じゃなければ居た堪れなかったからだ。
 葬儀はただの専業主婦にしては弔問は多かった。これまでの母の活動がしっかりと見えた。この時も涙はない。
 父はどうしていたのか記憶がない。多分ずっと母のそばにいたはずだ。
 父が喪主を務めたのだが本人も自分が自分よりはるかに年下の配偶者の喪主をするなんて思ってもいなかったはずだ。
 そんな感じで四十九日まで法要を済ませたのだがこの時父が脇腹の痛みを訴えた。病院に連れて行ったら腎結石だった。父とストレスが溜まったのかねなどと話した。
 その後100日法要の時は私が帯状疱疹に罹ってしまった。
 私も母には頼っていた面があったからいろんなストレスが溜まっていたみたいだ。
 そんな感じで父は自分の半身みたいな連れ合いを失った。普段の生活から母に頼り切りに見えていた。しかし、言われたことは文句も言わずにしていた父だ。
 日が経つにつれ父の酒量が目に見えて増えていった。最初はしょうがないかと見ていたが近所付き合いや親戚の冠婚葬祭をサボるようになってしまった。その時の言い訳をするのは私だった。
 酒を呑んでお母さーんと近所迷惑を顧みず叫んでいる姿を見て正直愛想が尽きた。
 男やもめの情けない姿を見るに同情もあったがそれ以上に腹が立った。
 そこで私は田舎を出ることにした。一人残すのは心配だったがそこは結婚して近所に居を構える兄弟に任せた。
 そして上京して新しい病院で勤務を始めて数年が経った。ほぼ帰省はしなかった。
 ある日近所の方から電話があった。父が倒れたと。数年ぶりに帰省したら既に亡くなっていた。そして、この時は私が喪主を務めた。死因は母と同じ脳出血だった。
 ある種尊敬していた父の飲んで叫んでいる姿をもう見たくなくて父から逃げた私だ。そこに後悔はないがいつもにこやかにしていたのに、こんなふうにある意味壊れてしまうものかと見せつけられた感じだった。
 結婚している友人や同僚なんかにたまにいっていたのだが、奥さんに先立たれるなよ、逝くんなら先に逝けよと。やもめは辛いぞなんて。
 男の弱さをまじまじとみてしまったからだ。祖母は早くに配偶者を亡くしていたから普通に生活をしているのを見ておりその辺りを見るに女性の方が強いと思ったからだ。
 私にはそんな気を遣わなければならない人はいない。それが幸せなことなのかどうかはわからない。

#やもめ #母 #父  

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