日常からぽんと放り出されたような感覚になるたび、昔の日記を読み返す習性がある。ふと目に付いたのが、昨年の4月末に観た映画の感想を書き連ねたものだった。 ひどく曖昧な文章だなと思う。でも、ぬいぐるみの存在自体を曖昧だと認識しているから、題材として扱われている状態をとても新鮮に感じたことを覚えている。 ぬいぐるみ、持ち主にとって最適なかたちがあるのかもしれない。からだや部屋の隙間・あるいは空間のなかにじっと座っているなにか(飛び回っていることもあるのかもしれない)やわらかい・か
マクドナルドに駆け込んでソフトクリームを買った。 ベンチや植え込み 救済スポット・リスポーン地点・回復のターン
カップのふちをじっと見る。畔・透明な椅子に腰かける。その輪郭をたしかめる・呼吸・景色がはっきりとわかるとき、音が鮮明に聞こえるとき、だれかの顔がいつもよりよく見えるとき
骨 ろうそく つよい風 器 火 灯り 空洞 ちりぢりの 臓器 なにもない部屋 箱 窓 葉脈 小石 かけら 遠いどこか 知らない場所 光 明滅する 煙 星
どうしてかたちがあると思うのだろう。眠りと死の境界はどこにあるのだろう。どうして風が吹くたびこんなにもかなしい 光る部屋・知らない場所・透明なぬいぐるみ
高熱に浮かされながら支離滅裂なうわごとを唱えていた。ひどい頭痛のせいで思考が強制的にシャットアウトされる。途切れていく それらは浮遊感と同居していて、ほんとうに体があるのかどうかもわからなかった。体なんてなかったのかもしれない。わたしは布団だったし、毛布だった。幽霊だったかもしれないし、部屋そのものかもしれなかった