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ぬいぐるみ・かたち

日常からぽんと放り出されたような感覚になるたび、昔の日記を読み返す習性がある。ふと目に付いたのが、昨年の4月末に観た映画の感想を書き連ねたものだった。

映画『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』を観た。
ぬいぐるみサークル、通称ぬいサーに所属する人間たちのお話。それぞれ生きづらさを抱えながらも、ぬいぐるみと共に生きている。そしてさまざまな感情をぬいぐるみに向かって吐露するのだ。凄惨な事件が毎日のように報じられる世界への絶望、誰にも言えない悩み・かなしみ、他愛もない日々の話。
あまりにもやわらかく描かれているからこそ、言いようのない苦しみに襲われた。この原因はなんだろうと考える。
世界はこんなにやさしくない。と思うたび、「ぬいサー」という空間のなかで、"ぬいぐるみとしゃべらない"ことを貫きながらも、否定せず、ただそこに居るという選択をしたひとりの登場人物(白城)の存在がひときわ鮮烈にうつった。
どうしても考えてしまうのは、「ぬいぐるみとしゃべる」光景を異質だと捉える人間たちの存在だ。ぬいサーは永遠ではない。
前提として、この映画は決して、現実に苦しむ若者が逃避しているだとか、そういった話ではない。自分の居場所・置き場所・置き方・在り方・しっくりくるかたち、みたいなものを探し続けている。むしろ、"向き合うこと"を選んだ人間たちの物語だ。そしてその傍らにぬいぐるみが居るというだけなのだ。
白城はただ現実を見つめていた。ひとたび外に出てしまえば、好奇の目を向けられることもあるかもしれない。大切な人たち/この空間を守りたいという気持ちは痛いほどわかる。


「わたし」はぬいぐるみとしゃべらない。しゃべることができない。「わたし」の本体はぬいぐるみだから。"自分は人間ではなくぬいぐるみだ"という主張が、いつでもどこでもまかり通る世界ではない。
そしてこの映画もやさしさだけでできているわけではない。
残されていた余白こそが、「わたし」にとっての救いなのだとしたら。
安心できる場所、安全地帯。だけれどそれはバリケードのなかに過ぎないのかもしれないということ。でも、そうやって自分を守る方法をいちばんに考えられる世界があるのなら。

2023年4月29日の日記

ひどく曖昧な文章だなと思う。でも、ぬいぐるみの存在自体を曖昧だと認識しているから、題材として扱われている状態をとても新鮮に感じたことを覚えている。
ぬいぐるみ、持ち主にとって最適なかたちがあるのかもしれない。からだや部屋の隙間・あるいは空間のなかにじっと座っているなにか(飛び回っていることもあるのかもしれない)やわらかい・かたい・様々な手ざわり

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