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これからのはなし。

今わたしの恋人はこれからの生活をわたしと共に送ろうと、断捨離をしたり新しい資格を取ろうとしたり一生懸命未来を見ている。わたしも自分なりに恋人と共にする未来を考えていたのだけど、この間逆に距離を感じさせてしまっていたことに気付かされた。

セクシャルマイノリティゆえにわたしたちが共に暮らすことには様々なハードルがある。中でもわたしが高く感じるのは、どちらかが怪我や病気で入院したとしても、法的な繋がりはないためにキーパーソンになることが出来ないことだ。つまり(なかなかに大きな話になってしまうけど)、治療の意志決定には基本的に関わることができないのだ。

その他にも色々なハードルはあるのだが、歳を重ねて2人の力だけでは生活を回せなくなった日のためにもお金が必要なのだ。わたしは1人でも生きていけるような仕事をしているから(ここで言う1人でも生きていけるは経済力だけを指す)、その点は心配しなくていい。あなたと暮らすために今よりもっと給料や社会保障の良いところに移って働くから大丈夫。そんな伝え方を恋人にした。

経済力の安定はわたしなりに考えた2人で一緒に過ごすための欠かせないことだと思っていたが、それがかえって恋人の心にもやもやを作ってしまう結果となってしまった。経済力の差がみえて一緒に居るのが申し訳ないと。本当に自分はわたしと一緒に居ていいのだろうかと。

それを聞いたわたしは「そんなふうに思わなくていいよ」「2人で暮らすためにはお金が必要なんだから」「あなた1人くらいなら養えるよ」と、当たり前のように思っていたのだが、でもそれって本当に「2人で暮らす」ことなのだろうか。

確かにお金は必要だ。必要だけど、それだけに捉われてしまってはいけない。あくまで仕事は「2人で暮らす」ための手段の一つに過ぎないのに、わたしは稼ぐことだけに捉われてしまっていた。わたしは「何のために生きたいか」を見失うところだったのだ。

わたしはわたしの幸せである恋人と一緒に過ごすために生きたい。ただそれだけ。


「2人で暮らす」を形にするにはまだまだこれから時間がかかりそうだ。


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