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僕は今、W杯の渦の中にいる カタールワールドカップ観戦記④

ゴールドライン東の終点であるRBA駅に到着した。まだ夕方の五時くらいだったが、ドーハの陽はすっかり沈んでしまっている。駅を出ると、試合の会場であるスタジアム974 が正面に見えた。駅構内で出会ったカタール在住の日本人ジャーナリストの方と少し言葉を交わしてからスタジアムを目指した。 

このスタジアム974は、974個のコンテナでできた外壁は用途に合わせて自由に組み替えることができるらしい。そして実際に、この大会が終わればこのスタジアムは解体されてしまうのだそう。

人生で初めてのワールドカップスタジアムは、この大会が終われば解体されてしまう

大地に深く根を張り、その土地の空気とサポーターたちの歓声を吸収して街と人と共に育っていく。それこそがスタジアムが持つ本来の色だと思っていたが、大会が終わり役目を果たしたその先で跡形も無く消えてしまう儚き美学は、一層この瞬間を最高のものにしたいという祈りを加速させる。

俄然心が昂ってきた。迷うことの無い一本道を、何万人もの群衆とともに歩いていく。同じ覚悟と目的を持って集まったものたちだけが歩くことを許される巡礼の道を、一歩一歩踏みしめる。

長蛇の列だったチケット確認用のゲートを抜け、スタジアムの内側に入った。そこでジャーナリストととは一旦別れ、階段を上った先に立っていたスタッフの一人に会釈をした。自分の席番号と壁に貼り出されている番号を照らし合わせながらぐるっと通路を歩く。そして何分か歩いたところで、自分の席があるブロックの入り口を見つけた。それがワールドカップの入り口だ。二人がギリギリすれ違えるくらいの狭い通路を抜け、人混みを掻き分ける。その刹那、視界に緑の海と眩しい光が飛び込んできた。

ワールドカップの内側だ ———

僕はバックスタンド側のコーナー前3列目のあたりに自分の席を発見した。今こうしてこの席に座っているが、実際にチケットを手に入れたのは数日前のことだった。うんざりする程の回線の混み具合と凄まじい奪い合いのためチケットをなかなか取ることができず早い段階で諦めていたのだが、直前になってチケットサイトに「オブストラクテッド」という種類のチケットが出現した。所謂見切り席で、本当は800カタールリヤルのカテゴリー1の席を200カタールリヤルで購入することができた。(勿論ほんの数秒で売り切れてしまった。)

見切り席であることを理解して購入したので、目の前に大きな柱があるとか、メディアが集まる目の前の席だとかある程度のことは覚悟していたのだが、実際には目の前にコーナーフラッグがあり、選手を間近で見ることができる素晴らしい席だったのだ。こんなにもいい席を破格で手に入れることが出来た喜びを噛み締めていると、グッドタイミングで左横の席に座っていたメキシコ人夫婦が、

「あなたもオブストラクテッドチケットを買ったの?」と声をかけてきた。

僕が食い気味に「そうです」と返事をすると、

「これのどこがオブストラクテッドなのかしら」と嬉しそうにしていた。ギリギリまで粘ってよかったなと改めて感じたのだった。

めっちゃいい奴だったメキシコ人


メキシコとポーランドはグループCに所属しており、アルゼンチンとサウジアラビアが同席している。下馬評でいけばアルゼンチンの一位通過は確実かと思われた——だが、サッカーというのはそれほど思い通りにはいかない。今日の午後に行われた試合で、サウジアラビアがアルゼンチンに2対1で歴史的な逆転勝利を収めたのだ。僕がその試合結果を知ったのはカタールに着いてほんの1時間ほどが経った頃で、行きの電車でブラジル人が大喜びしているのを見た時だった。彼らが即興で歌っている歌をよく聞くと、

「メッシチャオメッシチャオメッシチャオチャオチャオ!(メッシさようなら!)」

と言っている。どうやらアルゼンチンに何かがあったらしい。周りにいた人に話を聞いてみると、まさか、サウジアラビアが勝ったというのだ。目的地に着き、一旦ひと段落してこれからの道程をあれこれ想像している矢先のことだった。

まるで自国が優勝したかのように馬鹿騒ぎをするブラジル人、そして小判鮫のようにそこに引っ付いて同じようにメッシとアルゼンチンを嘲笑するメキシコ人。本当に陽気だ。だが僕には、その即興の歌がアルゼンチンを嘲るだけのものではなく、それと同時に同じ南米のサッカー大国としての意地を見せろよというような鼓舞のニュアンスを含む歌にも感じられた。

そういうわけでまるで行き先の読めない波乱の幕開けとなった。そしてこのアルゼンチンの敗北を前にして僕が思うのは、メキシコとポーランドにはアルゼンチンをまくる実力と可能性が十分にあるということだった。両国ともこの後にサウジアラビアとアルゼンチンとの2試合を控えているため、この試合に勝った方がグループステージ突破を大きく手繰り寄せることになる。選手たちはそれを十分に理解しているはずだし、初戦といえど、このグループCの行く末を決める重要な試合になるのは間違いない。

スタンドに陣取ったサポーターの数は白のユニフォームを身に纏ったポーランドより、緑のユニフォームを身に纏ったメキシコの方が圧倒的に多かった。

セレモニーと選手入場が終わると、国家の吹奏が始まり、メキシコ人の大きな歌声がスタジアムに響いた。


メキシコ人よ、戦いの声を聞け

剣と馬を用意するのだ

そして大地の中心が揺さぶられる

大砲の音が響き渡る音とともに

そして大地の中心が揺さぶられる

大砲の音が響き渡る音とともに

ああ祖国よ 平和の大天使が頭上にオリーブの冠を被せる

神の指が君の永遠の運命を書いたのだから

もしそれでも他の国が君の土地を踏み汚そうとするのならば

ああ愛する祖国よ 思い出すのだ

天が君に息子たちを戦士として与えたことを


オープニングセレモニー

スタジアムのボルテージは最高潮に達している。ドーハはまもなく午後7時、主審の鋭い笛が試合のキックオフを告げた。

前半5分、最初にチャンスが訪れたのはメキシコだった。ビルドアップをするポーランドの左サイドバックのベレシンスキのトラップが大きくなったところを、右ウィングのロサーノがカットし右サイドを一気に駆け上がる。そのままクロスを上げるが、メキシコのフォワードは中でうまく合わせることはできなかった。

前半6分、今度はポーランドにチャンスが来る。メキシコのエレーラから奪取したボールをシマンスキが繋ぎ、落ちてきたレヴァンドフスキがポストとしてボールを収める。そして右サイドを駆け上がるカミンスキの勢いを殺さないようにスルーパスを出す。しかし結局メキシコのディフェンダーがカミンスキに追いつき、クロスを見事にカットした。そのあともコーナーキックが立て続けに3回続いたが、全てゴールには至らなかった。この一連の流れはポーランドの狙いがよく出ていたプレーで、メキシコのポゼッションに対してカットしたボールを、最短経路でレヴァンドフスキに繋ぎ、そこから試合を展開しようとする戦略が伺えたものだった。

その後もメキシコにはチャンスが何度かあったが、ポーランドの組織的な守備がゴールを許さず、無得点のまま前半が終了した。

一度席を立ち、改めてスタンドからスタジアム全体を眺めてみると雲泥の差でメキシコサポーターの方が多いことがわかる。芝生の延長線上でメキシコの緑が蠢いている——これもワールドカップである。

メキシコの、「知っている選手はほとんどいないけど毎度大会を面白くしてくれる国」感を肌で体感しながら、後半こそ大きな展開があることを願って一度トイレに向かう。

後半も立ち上がりの主導権を握ったのはメキシコだった。ロサーノを中心にライン際での駆け引きを挑む姿が何度も見られる。支配率もおそらくメキシコの方が高いだろう。しかしどうだろう、前半と比べると明らかにポーランドのディフェンスに苦しんでいるように感じられる。ポーランドの選手たちは前から果敢にボールを奪うことを試み、アタッキングサードでのプレスを怠る様子が全く見られない。ハーフタイムに監督からの指示があったのだろうか、前線からのプレスに人数をかけはじめたポーランドの守備網に、メキシコの選手たちが捕まりはじめているのだ。

そして後半が始まって間もなく10分、この試合最大のチャンスが訪れる。

自陣のペナルティエリア付近でビルドアップを開始するメキシコに対して、ポーランドは同人数でプレスをかける。段々と窮屈になってきたメキシコはサイドに追いやられ、顔を覗かせたアンカーのアルヴァレスに入ったボールをジエリンスキが後ろから突き、スペースに転がったボールをセンターバックのグリクがダイレクトで縦パスを出し、それを受けたレヴァンドフスキがうまく反転した。その時だった。相手センターバックのモレーノと接触したレヴァンドフスキがメキシコのゴール前で転倒したのだ。ペナルティエリア内だった。一度はプレーオンになるも、ボールがタッチラインを割った瞬間にVARが入る。スタジアムが緊張に包まれた。一連の流れがあったサイドとは逆側にいた私の目にも、レヴァンドフスキが倒される姿ははっきりと確認できた。

主審がピッチに帰ってくる。甲高い笛の音が、祈るようにして見つめるメキシコサポーターの静寂を切り裂いたその刹那、主審はメキシコのPKスポットを指さした。ポーランドのPKを取ったのだ。場内はメキシコの大ブーイングに包まれた。

これは面白いことになった。おそらくPKを蹴るのはレヴァンドフスキだろう。そして、メキシコのゴールマウスを守るのはあのオチョアだ。ポーランドの絶対的エースで世界最高のプレイヤーであるレヴァンドフスキ、そして史上最多のワールドカップ五大会連続出場記録を持つメキシコの絶対的守護神オチョアの対決が目の前で実現しようとしている。ポーランド対メキシコとはつまり、この二人の直接対決に他ならないのだ。

そしてやはりボールをセットしたのはレヴァンドフスキだった。

ブーイングが飛び交う中、大股でいつもの感触を確認するように助走をとった。天を仰ぐ彼の背中が遠くに、しかしはっきりと見える。肩が上下に動き、意を決したように息をはっと吐いたのがわかる。白いユニフォームが張り付いた大きな身体の繊細な鼓動を感じとることができる。

祈るメキシコ人、祈るポーランド人、ピッチに佇みただ見守ることしかできない両選手たち。左に二歩、ゆっくりと身体を動かしてからレヴァンドフスキが走り出した。

一瞬のことだった。レヴァンドフスキが勢いよくゴールの右隅に蹴り出したボールは、オチョアの左手によってゴール外に弾かれてしまった。オチョアは完璧にコースを読み切っていたのだ。レヴァンドフスキの完敗だった。すなわち、オチョアの完勝だった。

スタジアムが歓声の坩堝へと昇華した。それは驚きというよりも、オチョアに対する信頼に近い感情が表れているように思えた。緑の人並みが大きく揺れている。国と国がぶつかり合い擦れ合うワールドカップにおいて、この中南米の熱く沸るような国民性がサッカーというスポーツをここまで発展させてきたのだなとこの一試合で簡単に納得がいってしまう。

そしてその流れのまま、メキシコのエースが登場する。後半25分、マルティンが下がり、ラウール・ヒメネスが投入される。その姿は、2014年のブラジルワールドカップ、日本対コートジボワールで日本に先制点を許した直後に登場したディディエ・ドログバを彷彿とさせた。

終盤に差し掛かって両監督がカードを切り合う。メキシコが選手を変えればポーランドも選手を変える。しかしそれでも試合に動きはない。それほどにまでポーランドの守備が堅く、それほどにまでメキシコのゴールが遠い。

だけど、固唾を飲むほど面白い。目の前で繰り広げられている一進一退の攻防が、サポーターの胸に大きな作用を及ぼしている。たとえスコアレスであっても——勿論劇的な展開があれば尚良いが——心揺さぶられるものがある。得点が入らずとも、あわやゴールというシーンがあろうとも、両国のサポーターたちの応援は鳴り止まない。テレビで観戦している人にこの試合がどう映っているかはわからないが、少なくとも内に閉ざされたこの空間では、全てが弾け飛んでしまうほどの熱狂が渦巻いていた。

結局アディショナルタイムの7分間も得点は入らず、主審の笛が鳴った。メキシコとポーランドは勝ち点1を分け合うこととなった。

試合が終了し、さあ宿に戻ろうかというその帰り際、スタジアムの前で一人の女性と目があった。矯正用のブラケットを覗かせながらこちらにニコッと微笑みかけてきたので、話しかけてみようかと考えた。明らかにヨーロッパ系の顔ではなかったので、メキシコから来たのかと聞くとどうやらエジプト人のようだ。

不思議に思った。なぜならエジプトは今回のワールドカップには出場していないからだ。セネガルに敗れ惜しくも出場を逃していたはずだった。あまり失礼のないように僕は浮かんだ疑問をそのまま彼女にぶつけてみると、微笑みながら彼女はこう言った。

「サッカーが好きだからよ。本当はエジプトが出ているワールドカップを観たかったけれど、ここに来ることは前から決めていたの。」

僕は何度も大きく頷いた。自国がワールドカップに出場していない彼女もまた、この大会の参加者だ。至上の絶景を一眼見ようと舵をとった仲間だった。

彼女と別れた後、僕は急いで停留所へ向かいホテル行きのバスに飛び乗った。

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