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詩歌ビオトープ005: 前田夕暮

はい、ということで詩歌ビオトープ5人目です。

そもそも詩歌ビオトープとは?
詩歌ビオトープは、詩の世界を一つの生態系ととらえ、詩人や歌人、俳人を傾向別に分類して、誰と誰が近い、この人が好きならこの人も好きかもしれないね、みたいなのを見て楽しもう、という企画です。ちなみに、傾向の分類は僕の主観です。あしからず。

5人目は前田夕暮。この人は1883年に神奈川県で生まれ、1951年に亡くなりました。

尾上紫舟に師事して車前草社に参加、同門には若山牧水がいます。年齢も近かったので、ライバル的な関係だったのかもしれませんね。お互いにかなり意識し合っていたんじゃないでしょうか。

白日社を創立し、「詩歌」という雑誌を創刊します。で、最初に出した歌集が「収穫」。この「収穫」の「収」という字は、本当は俗語の「収」だそうです。多分、パソコンでは出てこないけど。

この「収穫」は自然主義歌風の先駆、と言われているそうです。確かに、田山花袋の「蒲団」のような、恋をする男の気持ちを赤裸々に歌った歌が多い、という気がします。

その後、段々と表現が絵画的になっていくとともに短歌の定型に対しても疑問を感じるようになっていきます。そして「水源地帯」という歌集を発表。この歌集に収められているのは、前衛的な口語自由律短歌です。

ただ、その後はまた定型へと復帰していきました。

さて、いつもの通り、ネタ本は小学館の昭和文学全集35です。

本書には、「水源地帯」から54首、晩年の「耕土」から59首が収められています。

で、僕の分類だと、生活詠が53首、自然詠が48首、社会詠が13首でした。なので、位置はここにしました。

この人は、「水源地帯」という歌集を彼の本領と見るか、それとも一時的な挑戦だったと見るかで評価が変わる気がします。川田順を「老いらくの恋」の人と見るかどうかで評価が変わるように。

「水源地帯」の歌で一番有名なのは多分これだと思うのですが、

自然がずんずん体のなかを通過するーー山、山、山

この歌って正に絵画的だと思います。多分、飛行機に乗っていて、そのときに見えた景色や感じた感覚を歌っているのだと思うんですけど、この歌には確かに「自分」が出てくるのですが、でも、その「自分」は自然が、山が「通過」するものでしかないんですよね。自分というものが単なる媒介であり、脇役になっている。

その意味では、この時期の前田夕暮はある意味会津八一に似ている気がします。描いているものや方法は全く違うのですが、ベクトルが同じだと思う。

なんていうか、この人は「感情」と「感覚」の違いにすごく意識的だったような、そんな気がします。そして、「感情」よりも「感覚」の方により重きを置いていた人だと思う。そう考えると、初期の自然主義から口語自由律への展開、そして定型への回帰が一筋の線として繋がるなあ、と僕は思います。

ちなみに、この人は萩原朔太郎の「月に吠える」の刊行に大きく協力したことで知られていますね。いわゆるプロデューサーのような役割を果たしたのかもしれません。

さて、最後はいつもの通り僕が特に気に入った歌をいくつかご紹介。

海底には超現実的世界がある。若者よ魚になれ

自分のデスマスクを考へながら、朗かに朝の楊の花を見てゐた

悲しみはわがものならず遠天の赤き光に照らされにけり

ということで、6人目に続く。

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