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高橋元吉の「胸の底が」という詩

今日は、高橋元吉という詩人の「胸の底が」という詩の話をします。こういう詩です。

胸の底が

胸の底がいきなり陥ち込み
悲しみがなだれこんできた
ひとりになり
窓のところへ行った
その瞬間
みるみる世界が凝縮するかと思はれた
絞られるかのやうに

高橋元吉という詩人は、1893(明治26)年に群馬県で生まれ、1965(昭和40)年に亡くなりました。煥乎堂という書店・古本屋の社長だったそうです。群馬県では有名な書店なのでしょうか。大阪でいう天牛書店のようなものかしらん。

彼は白樺派の人たちと交流があったほか、萩原朔太郎の中学の後輩だったので、朔太郎とも交流があったそうです。

wikipediaによると、「偶成の詩人」と呼ばれていたのだとか。どういう意味なんですかね。その詩が、どれもたまたま心に浮かんだことを詠んだように読める、ということでしょうか。

さて、紹介した「胸の底が」という詩なのですが、僕はこの詩が、どうもよく分からないのです。分からないけれど、心に残っているというか、分からないのに、なぜか分かる気がするのです。

まあ、何だろう、いわゆる現代詩とかを好きな人は「詩は頭で読むものじゃない」とかなんとか仰られるのかもしれませんが、まあ、それはそれとして、僕は出来るだけ詩というものはちゃんと頭で読みたい、と思うんです。その上で、どうしても頭では理解できない領域というものが詩にはあると思う。でも、最初から頭を使わない、というか理屈で考えないというのは、それは違うような気が、僕はします。まあ、ただ単に僕がそれをできないだけかもしれませんが。

さて、この詩なんですけど、最初の二行

胸の底がいきなり陥ち込み
悲しみがなだれこんできた

というのは、とてもよく分かるのです。そういうことありますよね。有体な言い方をするならば、胸にぽっかり穴が空いたような、という感じ。 

でも、この詩はこの後、こう締めるんですよね。

その瞬間
みるみる世界が凝縮するかと思はれた
絞られるかのやうに

世界が絞られるかのように凝縮する、というのは、一体どういうことなのでしょうか。

僕は、胸にぽっかり穴が空いたみたいな気分になるときって、いろんな物事が何だか無意味に感じるときだと思うんですよね。

で、無意味である、というのは、僕の中のイメージだと、意味が外に拡散されていくような、そんな感じなんです。拠り所がない、みたいな。

そう考えると、この詩のこの部分は、僕の感覚とは逆なんですよね。矛盾している。

まあ、それはそれで面白い感覚だとは思うのですが。

でも、もしかしたら、最初の二行の解釈が違うのかもしれません。

胸の底がいきなり陥ち込み
悲しみがなだれこんできた

は、別に、胸にぽっかり穴が空いた感じではないのかもしれない。

でもね、だとしてもですよ。とにかく、急に、突然ものすごく悲しくなるわけじゃないですか。そして、後半の

その瞬間
みるみる世界が凝縮するかと思はれた
絞られるかのやうに

というのが、僕の感覚である、意味が凝縮する、ということなのだったとしたら。

だとしたら、こういうことですよね。この詩の主体は、あるとき突然悲しくなって、ふと窓の外を見たら、そこに凝縮された意味を見た、と。つまり、見たものは悲しみの理由なのですが、でも、凝縮されているわけですから、ただ悲しみの理由だけじゃないのかもしれない。もっと色んな何かが、そこに、ぎゅっと絞ったみたいにあった。そういうことなのかもしれない。まるでブラックホールのような何かが。

それって、一体何なのだろう。

分からないなあ。分からないのだけれど、それは絶対、めっちゃヤバいやつだ。きっと。

僕は、何だか、この詩がすごく頭に残っているんです。そして、この詩が表現しているものは、何だかとても正しいというか、的を射ているような、そんな気がするのです。

何なんだろうなあ。


ということで、また明日。

おやすみなさい。

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