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詩歌ビオトープ006: 北原白秋

はい、ということで、詩歌ビオトープ6人目は北原白秋です。

そもそも詩歌ビオトープとは?
詩歌ビオトープは、詩の世界を一つの生態系ととらえ、詩人や歌人、俳人を傾向別に分類して、誰と誰が近い、この人が好きならこの人も好きかもしれないね、みたいなのを見て楽しもう、という企画です。ちなみに、傾向の分類は僕の主観です。あしからず。

北原白秋は1885年に福岡県で生まれ、1942年に亡くなりました。歌人としてはもちろんのこと、詩人、童謡作家としても有名ですね。

1906年に新詩社に参加、その後脱退して「パンの会」に参加し、象徴主義や耽美主義の詩を「スバル」に発表します。そして1909年に処女作「邪宗門」を刊行しました。

初めての歌集「桐の花」を発表したのは1913年です。その後は詩集と歌集を同じペースで書き続け、1918年からは「赤い鳥」で童謡作品も発表していきます。そして1924年には前田夕暮、土岐善麿、古泉千樫、木下利玄、川田順、釈迢空らと反アララギ派の短歌誌「日光」を創刊、歌壇に新風を巻き起こしました。

さて、今回もネタ本は小学館の「昭和文学全集35」です。

本書には「白南風」から47首、「夢殿」から17首、「渓流唱」から11首、「橡」から15首、「黒檜」から44首、「牡丹の木」から33首の合計167首が収められています。

で、僕の分類では自然詠が105首、生活詠が49首、社会詠が14首、思想詠が3首でした。なので、位置はここにしました。

もう、自然詠の極北、という感じです。白秋自身の感情を詠んだ歌というのはほとんどありません。

僕は思うのですが、多分、この人にとって短歌というのは、ポートレイトのようなものだったのではないでしょうか。なんていうか、思想性のようなものもまったくないのですよね。ただその瞬間を歌にしている。その意味では、窪田空穂とは正反対の人かもしれない。

でも、思想性がないから深みがないとかつまらないとか、そういうわけではないんですけど。

この人の歌は、どうしてこんなにもハイカラなのでしょうね。白秋って、基本的にずっと日本で暮らしてた人ですよ。だから、他の歌人たちと同じ景色を見ていたはずなんです。なのに、白秋の歌って、まるで印象派の絵画のような雰囲気がありますよね。

しかもこの人、外来語とかはほとんど使ってないんですよ。外来語を取り入れた短歌だったら斎藤茂吉の方がずっと多いんですけど、斎藤茂吉より北原白秋の方がずっと西洋的なイメージありますよね。不思議。

なんか、その辺が実はこの人が詩人としてだけじゃなく歌人としても高く評価されている理由なのかもしれませんね。誰も詠めない歌を詠んでるのだから評価するしかないというか、その芸術的感性に対しては、当時の歌人たちもほんとに脱帽したんじゃないでしょうか。

いかにも詩人が詠んだ歌でありつつ、ちゃんとこの頃の短歌のマナーは押さえちゃってるわけですから、ほんと、才人ですよね。

萩原朔太郎がどこかで、大正時代くらいまでは短歌と俳句と自由詩の間には境界線のようなものはあまりなかった、互いに批評し合うような雰囲気があったって書いてたんですけど、そういう全部ひっくるめた「詩歌」というようなシーンがあったのは、実はこの人がいたからなんじゃないか、と僕は思います。物理的にもパイプ役を果たしただろうし、精神的なパイプにもなっていたんじゃないでしょうか。そのさらに大元には、森鴎外がいたのでしょうけれど。


さて、今回も最後に僕が気になった歌をいくつかご紹介。

日のあたりなにとなけれど春もやや立枯草の叢根かがよふ

この歌、すごいですよね。「なにとなけれど」ですよ。つまり、何もない、と。何もないものは詠みようがないと思うんですけどね。ところが、その何もないように見えるところをよく見ると、春もやの中に枯草が輝いているって、なんかもう、すごい目だと思う。

女童が睫毛にやどる露の玉月のありかは雲の上にして

もみぢ葉を月の光にながめゐてはららきしからに我はおどろく

ということで、7人目に続く。


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