見出し画像

ヤンキーは思想である 『ヤンキーは絶滅してしまったのかーさとり世代に現れたヤンキーたちー』

まずはじめに、ヤンキーという定義をどれだけ多くの人が正確に説明できるのでしょうか。ヤンキーというものを説明してください、と街ゆく人たちにお願いしても、きちんとした定義を説明できる人は極めて少数で、尚且つその定義も人によって異なるものだと思われます。このように「ヤンキー」については、いまだに定まった定義がありません。Wikipediaの解説のよると「ヤンキーとは、本来アメリカ人を指す”Yankee”が語源。日本では”周囲を威嚇するような強そうな格好をして、仲間から一目置かれたい”という少年少女。またそれらの少年少女のファッション傾向や消費傾向、ライフスタイルを指す場合もある。口伝てで広まった言葉のため、本来の意味を知らない多くの人々によって曖昧な定義のまま使用されていることが多く、『非行少年』『不良』『チンピラ』『不良軍団』など多くの意味で使用させる」と簡潔にまとめられていますが、これがヤンキーの定義かと聞かれれば、これだけではないようにも思います。

「ヤンキー」については、言語や解釈を巡る議論がいまだに決着していません。しかし、明確であるのは、単に不良性を示すだけの言葉ではないという点です。だとしたらヤンキーとはなんなのか。ある一定の人たちのことをそう呼ぶのはなんとなくわかりますが、どんな項目に当てはまったらヤンキーとみなされてしまうのか、ということを考えなければなりません。

(『ヤンキー化する日本』斎藤 環著)という本の中で、斎藤氏はヤンキーとは何であるのかということを紐解いています。斎藤氏曰く、ヤンキーには一定の共通項があり、それに通じてる人たちを「ヤンキー的」とみなしています。

その共通項はいくつかの項目に分かれており、わかりやすい例を挙げるとすると、まず「バッドセンス」を好む、とあります。この「バッドセンス」とは、

「”誇張された様式性”は様式化とそこからの逸脱を繰り返しながら徐々に貯め込まれていった”いびつさ”の集積」

と説いています。

学生服や特攻服、改造車やデコトラ、デコチャリなどが”誇張された様式性”を如実に反映しています。この他にも、ぬいぐるみでいっぱいの車のダッシュボードや車のブラックライトやアンダーネオン、ガングロギャルのメイクなどを例に挙げており、これらの「バッドセンス」を好む傾向にヤンキーという存在があるとしています。しかし、一目でわかるものというのはこれくらいのもので、その他に挙げられている特徴は極めて精神性の高いものばかりです。

ヤンキーのもつ内面的な共通項について、まず「高いコミュ力」が挙げられます。そして、ここで示す「コミュ力」には「キャラ」の存在が大きく関わってきます。

この「コミュ力」とは「キャラ」に依存したコミュニケーションで、互いの持つキャラクターを確認し合う作業は、お笑い芸人の漫才のように、会話を永久的に続けることを可能にします。「キャラ」によって円滑になった会話は更に「キャラ」を加速させることになり、この「コミュ力とキャラ」の二つは、相互扶助の関係を成立させているのです。

また、ヤンキーの内面的な共通項に「気合い」というキーワードがあります。これはヤンキー的な精神性の核にもなっている部分です。「気合い」を入れることは、人の力の限界を越えた能力を発揮することが可能である(少年漫画などで頻出する)、という考えに基づく、意気込みや姿勢を重要視するスタイルです。

しかし、この「気合い」を重視する考えは様々な問題も孕んでいます。

まず第一に「気合い」文化は、ヤンキーだけに限った話ではありません。日本人に浸透しきっている思想だということです。ここ一番で「気合い」を入れる作業は、ヤンキーだけがする作業ではなく、私たちのような”それ以外の文化圏”に属する人々がおこなっても違和感はありません。つまり「気合い」に頼るという行為自体は決してヤンキー文化のみに限定されたことではないのです。

次に、この文化は、一歩間違えれば肉体をはるかに凌駕した精神主義に姿を変えてしまいかねないという点です。その最も大きな一例に、太平洋戦争が挙げられます。

「大和魂があるから資源のない日本でも戦争に勝てる」

という考えは、非常に非現実的な「気合い」であり、肉体を超越してしまった、極度の精神主義です。日本の誇る無限の資源といえば「気合い」だということです。斎藤氏はこの考えを今風に言うならば「エア資源」と表現しており、「がんばれ!」と私たちが軽い気持ちで人を励ます行為は、エア資源を送ることと同じであると論じています。

そして三つ目に、「気合い」は集団主義的な思想も孕んでいます。家族のため、仲間のため、その気合いの裏には常に、自分を含めた共同体への帰属意識が潜んでいます。スポーツなどでよく用いられる精神論と一緒で、自分ひとりのためだけに努力するのではなく、チーム全体のために努力する、というこの構図こそが「気合い」の正体であり、個人を全体に取り込み、集団主義に引き寄せているのです。

続いて、”ヤンキーの美意識”に話を移しましょう。”ヤンキーの美意識”を説明するうえで「ポエム」という存在を欠かすことはできません。「ポエム」はヤンキーとの親和性が非常に高いです。なぜならば、「ポエム」は知性や倫理といったこととは無関係に、肯定感情をもたらしてくれるからです。わかりやすい例を出すと、ガラケー時代多くシェアされた、「ずっと親友だよ♡」など、ギャル文字で綴られ、バッドセンスにデコられた待ち受け画像が端的でわかりやすいのではないでしょうか。理想のみを語るポエムは、それまでの過程を道筋に立てて示すことはありません。反知性的であり、緻密な理論より行動が重要視されます。

そして同時にポエムは共感を促す力として非常に強く作用するものでもあります。ポエムへの感動を分かち合うことは、強い共感を通じて承認欲求を満たしてくれるでしょう。このポエムを理解できるということは、お前は俺と同じ精神性を持っていて、ポエムがそれを裏付けてくれる担保のような役割を担ってくれるのです。

このような感覚重視のポエムは、ヤンキー文化の「女性性」の現れであるとも見ることができます。基本的にヤンキーは地元志向伝統志向が強く、そこでは理念以上に関係性が重んじられています。この、「繋がり」と「関係」に重きを置くヤンキー文化を「繋がり、包み込む母性」と見ると、ヤンキー文化は「女性的」である論じるのは乱暴でしょうか? 「女性的」とはつまり、所有に対しての欲求ではなく、共感などや繋がりを求め、重視するということです。「ポエム」はヤンキー性において「女性的な一側面」の共有欲の象徴であるということです。

ここまでの説明で、ヤンキーという言葉の定義がそういった文化を好む若者たちを指しているというよりも、それに基づいて生きている人たちのことを指していて、ヤンキーというものが思想である、ということがお分かりいただけたのではないでしょうか。そして思想となってしまったヤンキーが、どのようにして、私たちの中に息づいているのかを論じていきたいと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?