自分が思っているより人に好かれていない話

 焼き芋の季節がやってきているというのに、外は暑いままだ。コンビニにはさつまいものスウィーツが並び、これみよがしにモンブランが売られている。大体、モンブランへのアツい執着心はどこからやってくるのだ。そんなに栗の季節に喜ぶなら、みんなもっと普段から甘栗むいちゃいましたとか、栗の入った羊羹を食べるべきなんじゃないのか。普段コンビニで栗買ってる人なんて見たことがない。いや、見たことがないなんて言い過ぎかもしれない。ただ、うれし気に甘栗を日常で食べている人を見かける機会が少ないのは事実だと思う。これをみて腹を立てた甘栗ファンはもっと主張していい。SNSで甘栗を流行らせろ。ワンシーズンに一回モンブランを食べるだけの人間に栗を語らせるな。まあ別にどうでもいいんやけど。栗もモンブランも、別に好きじゃないし。
 栗への疑いを抱いている間にも季節は巡り、青々としていたはずの緑はいつの間にかなんとなく美しいような紅になる。人々は赤々とした葉っぱを見上げて喜んでいたはずなのに、歩道に積もる落ち葉は容赦なく踏みしめられていく。歩道の落ち葉は無数の代り映えのしない、まるで型押ししたかのような靴底の跡でたくさんになる。ああ、落ち葉落ちてる、踏まんとこ、なんて思う人間はそういないのだろう。美しかったはずの紅葉は靴底を汚すだけの何かになる。かつて美しかった何かに結局のところみんな興味などないのである。
 この間、会社のおっさんから電話があった。このおっさんが曲者で、なぜか人の神経を逆なでするタイプのおっさんなのだ。本人に至って悪気はなく、そんなつもりなどまるでないのが不思議である。でも難しいのが、彼の何がそこまで人の神経を逆なでするのか、考えてもよく分からないのだ。具体的に彼を批判せよと言われても難しい。でもなんか腹立つ。どう考えてもソンな人間である。
 おっさんからの電話は、近況を聞くだけのものだった。おっさんと私はペアで仕事をしているのだが、何せ営業所が違うので二回くらいしか顔を合わせたことがないのだ。だからおっさんは積極的に電話をかけてきて、私との交流を図るのである。良いやつっぽいやろ?でもほとんどの場合、私は電話の内容に腹を立ててしまうのだから困ったもんである。
 おっさんの声はどことなく元気がないように思えた。心当たりがある。おっさんは最近、やけに嫌われているのだ。人間の集団心理っていうのは、大人になっても変わらないのだと実感するのだが、みんなでよってたかってこのおっさんの悪口を言っているのだ。人の悪口をいうのは気持ちがいい。人の悪口を言うと、何故かその人より優れているような気になれる。純粋な主観で他人を否定出来る。気分が高揚し、一体感が生まれる。うわ、最低って思った?でも大概はそう。人間と人生は、思ったよりもくだらないもので出来ているもんなのだ。
 悪口が大好きな私が好きじゃないのは、悪口を言っていることを匂わせたり、悪口を言っていたと本人に言ってしまうことだ。ナンセンスである。悪口は本人のいないところで完結すべきなのだ。でもなぜかみんな、おっさんにヒントを出してしまう。悪口を言っているよ、言われていたよ、というヒントを出しているのだ。それはそれは丁寧に、おうちに帰りたいヘンゼルとグレーテルみたいに、ヒントを出し続けている。
 同僚によると、今の彼に彼の至らぬ点を指摘するのは酷だから、ということだそう。死刑を執行せず、真綿で首を絞めている。最終地点は同じ死なのに、まるでその方が苦しみがないかのようにゆっくりと窒息させているのだ。
 私ははっきり言っておっさんのことを気の毒に思っていた。あれだけ腹を立てていたおっさんに同情していた。それは多分、私もゆっくりと真綿で首を絞められているからだろう。おっさんと同じように私にも柔らかな死が待っているのだ。おっさんが死ぬのが先か、私が死ぬのが先か。私は相槌を打ちながら、おっさんの首の周りに巻きついた真綿に思いを馳せていた。
 おっさんに、仕事はどうかと聞かれた私は、率直に辛いと答えた。職場の誰にも仕事が辛いと漏らしたことはないのに、おっさんには辛いと言った。多分それは、おっさんも間違いなく仕事が辛いだろうと確信していたからだ。仕事を辛いと思っていない人間に仕事が辛いと話すのは愚策である。大体の場合は、求めていない激励を受けるだけだからである。そんなんが欲しいんじゃないのだ。そんなこと言われなくても分かっているのだ。その全てを超えて、仕事が辛いのだ。辛い気持ちは他人の言葉ではひっくり返らないのだ。
 おっさんは予想通り、下手な激励も、慰めも言わなかった。ただ、彼自身もこの歳になってこんなこともできないのかと思うし、想像以上に他人をムカつかせていることもあるし、思ったより人に好かれていなかったと漏らした。
 当然である。皆思っている以上に他人に好かれてなどいない。でもその当然は胸に深く刺さるし、どうにかしたいと藻掻いてしまうものなのだ。そこには年齢も性別も関係ない。他人に思っているほど好かれていなかったという気づきはいつだって痛いほど身にしみるのだ。
 でも考えてみれば、人間の気持ちほど信用できないものはない。紅葉を見上げた時の感動を本物だと思うのに、踏みつけた落ち葉に気が付くこともない。皆そんなに他人を大事にできないのだ。だから気にすることはない、なんて私はおっさんには言わなかった。そんなこと、私に言われたくないだろうから、私はただおっさんの話を聞いていた。最終的におっさんとは今度飲みに行こうということで落ち着いた。遠く離れた営業所で働いているのだから叶うはずもないけれど、私たちはやけに明るく電話を切った。
 もうすぐ秋が来る。秋が来たら、わたしは紅葉を見上げて落ち葉を踏みしめて歩こうと思う。その時、まだおっさんの首には真綿が巻きついているだろうか。私は、どうにかこの首に巻きつく真綿など吹き飛ばせていたらいいなと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?