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人のコンプレックスを笑うな

 社会人二年目ももうすぐ終わるであろう冬の終わりに私はマイアミからパナマへ向かう機内にいた。飛行機の中は嫌になるほど乾燥していて、私は虚空を見つめながら神経質に指先をこすり合わせていた。これが旅行ならどれほどいいだろう。足元に置いたリュックサックには重たいPCが入っていて、私にはこなさなければいけないプレゼンがわんさか待っていた。

 地獄の出張行脚はまだ半分程しか終わっていない。この先もまだまだプレゼンをこなさねばならない。あまりにも予定されている会議の数が多く、国によって内容も違うのだから厄介である。全く神経が休まらない。しかもプレゼンの内容だって、どう考えたってわざわざ現地に赴く必要があるとは思えないものだった。顧客からするとどうでも良いような内容のプレゼンだろうが、わざわざ日本から来たと言われると邪険にする訳にもいかないのだろう。マイアミで顧客のオフィスを訪問した際も、かろうじて名前を知っている方が一人で我々を待ち受けていた。オフィスには彼しかいなかった。皆ホリデーだったそうだ。彼は奥さんが臨月でホリデーも難しいが家にいても邪険にされるので出社しただけだそうだ。そんなもんである。明らかにこのプレゼンへの期待度と私の心労は釣り合っていない。得るものがいまいちないこの出張行脚は、ただただ憂鬱なだけだった。

 でも手を抜くわけにはいかない。隣には部長が、俺が世界のビジネスを牛耳ってますという顔で座っているのだ。この出張は一応、部長のお供と言う名目であるが、部長は白人恐怖症なのでプレゼンはせず、すべて私が担わないといけない。まったく本当に意味が分からない八泊九日、部長とのウルルン滞在記である。

 この部長と言うのがちょうど二回り程度年上のおじさんで、このおじさんと二人きりで出張に行くのもまた辛い。部長は直ぐにキレる。いわゆるパワハラ上司であった。白人の前でプレゼンが出来ぬから私を連れて行くのに、怒ってばっかりである。しかも道中隙あらば別れそうになっている彼女の話を聞かせてくるのだ。上司の、かつ異性で共感できる所なんてこれっぽっちもない人間の恋愛の話聞きたい奴おる?絶対おらんやん。しかもずっと二人きりで過ごさなあかんのに、これはなんていう名前の地獄ですか? だからといって、お前の恋愛話、一ミリも興味ないわ、と言う訳にもいかない。社会ってそういうところなのだ。部長がしたり顔で恋バナを始めるたびに私は曖昧な笑みを浮かべて相槌を打つのであった。

 

 パナマは中央アメリカに位置するこじんまりとした国で、自国の通貨は無く、USDをバルボアと呼び使用している。バルボア、海賊映画に出てくる悪役の様な名称である。パナマと言えばパナマ運河が有名であろう。実際のパナマ運河をコンテナ船が通過する瞬間は、いや、本当にパナマ運河がどれほど大切で大掛かりな手間暇をかけて作り上げられた物であるかは承知しているが、でも、実際のパナマ運河をコンテナ船が通る瞬間は、一言で言うと牛歩である。動いているのかいないのか分からないスピードで通過する。撮影した動画を後に32倍速に編集する程であった。

 

 パナマへ到着した翌日、朝から早々に会議を済ませた私たちはパナマ市内へと繰り出していた。パナマ滞在だけ、この長い出張行脚の中で仕事のない時間が多かった。しかも二泊する予定だったため、私はこの扱いにくい部長とあちこち巡る必要があったのだ。彼は口臭を気にしているようで、狭い車内や、やや距離の近い場所で話す時は、口をほとんど閉じて話す奇妙な癖があった。まあ本当に、それはそれは本当に、何を言っているのか分からないのだ。しかし機嫌を損ねると面倒くさいので、私はふんふんと相槌を打つだけのロボットになり、彼の話が世界で一番面白いみたいな顔をするのであった。本当に気の毒である。

 部長は移動の車内で最近愛用しているデオドランドクリームを取り出すと、意気揚々とこれがいかに効果のある製品なのか、耳の後ろに擦り込みながら説明し始めた。極めて同意し辛い話題である。そうですね、最近臭くないですよね、効果抜群ですね!なんて言えないからである。ちなみに腕時計をつけている部分が臭くなるそうで、手首にも入念にそのクリームを塗りつけていらっしゃった。世界一どうでも良い情報である。私はまた曖昧な笑みを浮かべ、憂鬱な感情を後ろの方へ追いやって、そうなんですね、と機械的に相槌を打ったのだった。

 お昼時に部長が見つけたレストランはとても雰囲気があるこじんまりとした店構えであった。店の中の壁という壁に鬼のような形相をしたお面がぶら下がっている。こういう鬼のような何かは世界共通で存在するのかと不思議な感慨を抱いたのを今でも覚えている。

 暑い店内でメニューを開くと、全く味の想像出来ない料理が並んでいた。全体的にココナッツ推し。まったく何味なのかわからないので悩んでも仕方ない。何品か適当に料理を頼むと、部長にせっかくだから飲もうよ!と言われた。中打ち上げのような気持ちなのだろうか。いや、自分なんもせず会議中座ってるだけや〜ん!とも言えないのが何を隠そうこの私である。気の毒な私は部長と昼間からさしで打ち上げを始めたのだった。

 酒が進むと人間は適当になるもので私も機嫌よくビールを煽る部長の話に適当な茶々を入れながらぐいぐいビールを飲んでいた。そこに気の毒な相槌ロボットはおらず、ただ酔っ払っている私だけがいた。部長の最初に指導した部下の話や、昔研修で行った現場仕事の話などをふんふんと聞きながら、我ながら上手くやっていたと思う。部長もパナマで過ごす優雅な昼下がりを楽しんでいたはずなのだ。私はこのままこの時間を乗り切ることができるのだと信じて疑わなかった。

 しかし部長は、唐突に髪が抜け始めた頃の話を始めた。非常にセンシティブな話題である。彼によると、30を超えた頃に突然バッサバッサと抜け始めたのだそうだ。私は、若かった私は、笑い話をし始めたのだと思い、豪快に笑った。なんならちょっと仰け反りながら笑った。そして仰け反った首を正面に戻すと、1ミリも笑っていない部長と目が合った。

 私の背筋は凍り、世界はスローモーションになった。いや、禿げてきた時の話とか、この流れでされたらネタやと思うやん。そんな、部下に髪の毛が抜けて辛かったって話、パナマで昼からビール飲みながらするなんて想像も出来ひんやん。ネタかなって思うやん。大体この話題の相槌の種類どれなん?同情するべきなん?同情するなら髪をくれ!とか言うて怒りださへん?大丈夫?それともいやー、全然禿げてないですよ!って言うべき?いやいや、もうそれは嘘やん。いや、禿げとるやろ!ってご本人にツッコませるのは酷すぎるし、もう全然正解が分からへん。永遠にも思えた一瞬でありとあらゆる事を考えて、結局私は一瞬で笑顔を真顔で上書きし、うぅ〜ん!と謎の声を絞り出し、ビールグラスに付着した水滴を指先でぐるぐる落として笑ったことなどなかったことにしようとした。

 恐怖である。パナマで遭遇するとは、想像もしていなかった恐怖だ。ラッキーなことに彼は酔っていたのもあったのか、何事もなかったように引き続き苦悩を私に告白した。私は神妙な顔つきで苦悩を受け止める任務を無事に遂行出来たのであった。しばらくして運ばれてきた料理はどれも不味かった。まるで、私の失敗のように、すっぱいだけの料理達は、私達に喜ばれることもなく、二人の恐怖の空間に鎮座していた。

 人は見た目ではないなんて綺麗事である。世迷い事であると言ってもいい。人はみな、何かしらのコンプレックスを抱えていて、何かの弾みでそれを部下に打ち明けてしまう時があるのだ。今の私なら、心の底から彼の痛みに共感しながら相槌を打てるのではないかと思うが、あのころの私には荷が重かった。パナマでのあの一瞬は今でも思い出すことがある。

 人はどんな瞬間からでも学べる生き物である。人のコンプレックスを笑うな。これがこの恐怖体験で得た、私の人生の教訓である。



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