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亡くなった祖父母との思い出話

父方のおじいちゃんが亡くなって5年ほど経った。そして先日おばあちゃんも亡くなった。
ふたりがもうこの世にいなくて、二度と話せないのが信じられなくて、おじいちゃん家に行ったら、「よお来たね」と二人が出てくるんじゃないかと思っている。

病院へおじいちゃんのお見舞いに行った時、痩せ細ってあんまり話せなくなったその姿がかなりショックだった。よくある話である。
元気な時のおじいちゃんは、会って数分でおちょけて私をくすぐってきたり、口をへの字に曲げてちょっとだけ変顔をしたりしていた。もちろんそんな元気もなく、私が話す事に「うんうん」とか頷くくらいで、後は看護師さんに「桃が食べたい」と言うだけだった。
その後退院したものの、ほぼ寝たきりになった。その頃の私は諸々忙しくはあったけど、会いに行く時間が作れない程ではなかった。でもベッドの上であんまり話せなくなってしまったおじいちゃんが受け入れがたく、あんまり積極的に会いに行けなかった。
葬式で棺に入ったおじいちゃんの顔を見て、焼いた骨を壺に入れて、まだほんのり温かい骨壺を持った時に後悔した。もっと会いに行けばよかった。

おばあちゃんはつい先日亡くなった。癌で入院して、退院して自宅へ帰ってきた矢先だった。
元気で、ちょっと顔がふっくらしてて、上から下へほんのり紫のグラデーションの色付き眼鏡をかけていた。化粧も毎日していたし雪肌精の化粧水で念入りにお手入れしていて、おしゃれしていたおばあちゃんだった。
棺に入ったおばあちゃんは、おじいちゃん同様痩せていた。なんだか若く見えた。おばあちゃんももっと会いに行けばよかった。



少し話は変わるけど、私は常にうっすら死にたい気持ちがある。みんなそんなもんだと思って生きてきたけど、根底にずっと薄く死にたさがあるのって少しだけ変なことなんだと近年気付いた。やっとその気持ちの浮き沈みの激しさを、ほんの少しコントロールできるようになってきた。
死にたさがあるときって、自分の価値をやたらと決めたがる。そういった時に過去家族や誰かからもらった優しさで食いつなぐんだけど、祖父母が亡くなってからよく思い出すからなのか、祖父母からもらった優しさで最近よく食いつないでいる。

誕生日にイチゴの大きいワンホールケーキをくれたとか、孫のいたずらに構ってくれるとか、大したことじゃないかもしれないけど、低い低い自己肯定感をその思い出たちが支えてくれている。
うるさくて、わがままで手のかかる私をあんなに大事にしてくれて、本当にありがとう。痴呆が進んでからも、孫たちの中で唯一未婚の私をしっかり心配してたらしい。ひ孫見せれなくてごめん。



祖父母が亡くなったことで、もう祖父母の家に行く理由が無くなってしまった。保育園から小学校くらいまで、週末は父母が趣味のスポーツをしに行くためよく預けられていた。なので結構な時間おじいちゃんの家にいた記憶がある。グーグルマップの車も入らない程狭い道の奥にある家は、私のノスタルジーの塊になった。

故人との思い出を、通夜とか火葬されている間の控室で親族と話したりして死を受け入れていくんだろうけど、それがあんまりできなかった。
父母も姉妹も忙しいからかそんなに覚えていないようで、こんなことあったよね~と言っても「そうだっけ?」と返ってくる。もしかしたら父母は涙もろい私と姉を気遣ってあんまり話さなかったのかもしれない。
なので思い出を書きだして少し落ち着きたい。
あとは自分の記憶力に自信がないので、今の時点で覚えていることを書き残しておきたい。
以下極小な身内ネタ、完全に未来の自分ウケnoteです。



おじいちゃんちは、山の麓の住宅街にあった。
隣に2階建ての家が建ったことで、平屋のおじいちゃんちには陽がほとんど入らなくなった。

父母に連れられて車で行くこと3,40分。車から降りると、エンジン音に気付いたおばあちゃんが玄関からにっこにこで出てくる。
手を振りながら車を降りて、挨拶もほどほどにおばあちゃんの先を歩いて玄関に入る。膝が悪かったおばあちゃんが苦労していた段差の大きい玄関。確か玄関に私が書いた絵を飾ってくれていた。

玄関を上がって左の部屋に入ると床の間。入口にはヘッダー写真のような、木の珠のれんがかかっていた。揺れるとじゃらじゃら音がして、当たるとめちゃめちゃ痛くて、来た時と帰る時必ず通るからなのか、おじいちゃんちといえば木の珠のれんなイメージが強かった。

床の間にはワープロとファミコンとロッキングチェアが置いてあって、このあたりが私の定位置だった。毎週毎週やってくる孫が暇を潰せるように、ファミコン置いててくれたんだと思う。ミンキーモモのやたら難しいソフトと、初代マリオとキングコング2怒りのメガトンパンチ、ドラゴンボール神龍の謎、サラダの国のトマト姫とかがあった。どれも難しかった。
床の間には孫たちの七五三の写真と、祖父母が旅先で撮った集合写真がいっぱいあった。地袋に磁石式のオセロと囲碁と花札。夕食の前後にみんなで遊んだ気がする。
壁にはペナントと地名が書かれたカラフルなミニ提灯。大勢の知り合いと旅行行くのが多分好きだったんだと思う。あとおばあちゃんが出たカラオケ大会の写真。謎に置いてあるプラズマボール。

床の間の右の部屋がリビング。大き目のテレビと、グレーっぽい青の皮張りソファ。このソファがおじいちゃんの定位置だった。
騒がしく入ってきた孫をこれまたにっこにこで迎えてくれる。ソファの上の新聞とリモコンをどかして隣に座って、おじいちゃんの手のシワをこねくり回すのがルーティンだった。
今ほど分煙が進んでいない時代、おじいちゃんはヘビースモーカーだったので私の隣でよくピースを吸っていた。口で煙の輪を作って見せてくれた。

リビングはめちゃくちゃ怖い般若面が飾られていた本棚と、その隣の電話台にコードがねじれまくった赤い電話と、使い終わったカレンダーを切って作ったメモ帳と、剣の形をしたペーパーカッターが置いてあった。テレビの横に魚釣りのおじさんの陶器人形とおばあちゃんの化粧品たち。こうして思うと謎な置物が多かった。旅先で買っては二人で飾ってたのかもしれない。

台所はやたら中身がパンパンに詰まった緑色の冷蔵庫と、たくさんの食器が入った棚。孫たち用にあんみつ姫の食器があった。あんみつ姫自体は世代じゃないので知らなかったけど、アニメ絵の食器で喜んでた気がする。あとリビングからリストラされた古いテレビが台所にあった。
ヘビースモーカーで酒も嗜むおじいちゃんは、私が小さい時から大量の薬を飲んでいた。その大量の薬がしまわれたせんべいの缶が台所にあった。薬を飲む時間になるとその缶をおじいちゃんへ持っていくのが私の仕事だった。

台所の奥に必ずミューズの石鹸が置いてある手洗い場と、昔ながらのタイル張り、ステンレス浴槽の風呂。一度泊まりに行って何故かタイル張りの風呂にビビっていた思い出がある。たしか結局夜中に寝れずに迎えに来てもらった気がする。

そういえば小学校くらいまではマルチーズがいた。きっといい子だったと思うけど、動物との距離感も図れないクソガキだったので、耳を引っ張って噛まれた覚えがある。その子が亡くなってしばらく後は、雑種の中型犬を引き取っていた。その子を引き取った経緯は忘れたけど、おじいちゃん犬だったのですぐ亡くなった気がする。その子の後はくそったれの叔父が飼育放棄した小型犬を飼っていた。みんな人懐っこくて可愛かった。

マルチーズとおじいちゃんと、何回か近所を散歩した。坂を下ると古い教会と杉玉が吊り下がった酒屋があって、その右の道を行くと2人の行きつけのカラオケ喫茶と、うなぎ屋。あと駄菓子屋。
駄菓子屋ではポケモンのひっくり返すとモンスターボールになるぬいぐるみをひたすら買ってもらっていた。めちゃめちゃ買ってもらっていたのでよく母に叱られた。今もあるおもちゃらしく、調べたら1個2500円(!)そりゃ怒られるわ。

なんやかんやと遊んでもらっているうちに、趣味を終えた父母が帰ってくる。母とおばあちゃんが台所に並ぶとすぐに、机の上がごちそうでいっぱいになる。すき焼きや焼肉や寿司、うま煮や漬物や、毎回食べきれなかった。はじめてぼたん鍋を食べたのもおじいちゃんち。おじいちゃんは晩酌も兼ねるので食事はほとんどとらず、ちびちびずっと何かを飲んでいた。
ちびまる子ちゃんとサザエさんを見て、大人たちが大人だけの会話(知り合いがどうだの、家の補修がどうだの)をする間はファミコンで遊んだり、持ってきたゲームボーイで遊んだり、未就学児のきったねえ字でおばあちゃんに手紙を書いたりしていた。
一回夕食後に山が近いからかめちゃめちゃでかいムカデが出て、みんなで大騒ぎした。最初は本気でみんな怖がってたけど、大人もみんなあまりに騒ぐので次第に楽しくなっていったのを覚えている。
8時台の番組が流れるころにそろそろ帰ろうか~となり、帰る素振りを見せる人間に大騒ぎする歴代のわんこたち。
膝が悪くて外へ出るのが大変だから、玄関先でいいよと言っても必ずおばあちゃんは外へ出て私たちを見送っていた。
車の窓を開けるとおばあちゃんがぎゅっと手を握って「またおいでね」と言う。
その後ろにおじいちゃんが立っていて手を振っている。祖父母の姿が見えなくなるまで手を振りかえす。
それが祖父母と、祖父母の家と、私の思い出。


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