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532『空母いぶき』 戦略的忍耐と9条解釈を混同してはならない

戦略的忍耐の是非を問いかける映画。西島秀俊さん、佐々木蔵之介さんが主役であり、見た人も多いのでは? 戦略的に忍耐のあり方を問うているので、ぜひ一見を。
わが国の離島を某国の偽装漁船群が襲来、巡視船が拿捕され、保安官たちは島に拘束されてしまう。奪還のため海上自衛隊が派遣されるが、敵は大艦隊で待ち受けている。
領土、国民を守るために自衛隊は存在する。全自衛隊を投入して即時奪還せよと防衛大臣は主張。チリ沖のフォークランド島を奪還した際のイギリスを思い出す。遠いし、小さな島だし…と渋る閣僚たちを、サッチャー首相が一喝する。「政府は何のための存在するのか。今、決断しなくてどうする。あなたたちの××はにせものか」
さて映画の日本では。「自衛隊は一人の戦死者も出さない。相手方にも出させない世界に誇る伝統がある」と総理が述べ、あくまでも外交を通じての解決を目指す方針を固める。「戦争につながる戦闘は厳避」との命令が発出される。
「撃たれるまで騒ぐな」、「撃たれても派手に撃ち返すな」というわけだ。でもそれでは隊員の命はどうなる。
 相手は侵略戦争をしているのであり、ミサイル、魚雷を雨あられのように撃ってくる。こちらは撃ち返さず、魚雷の前に身を乗り出した護衛艦は火だるまになる。艦隊は次々被弾して離脱。それでもいぶきは残りの艦を率いて島に向かう。
 なぜ反撃しない? 「憲法9条が戦争を放棄しているのだから仕方がないのだ」。総理も、野党も、マスコミもその前提に立って、小田原評定を繰り返す。
 
憲法解釈権は主権者である国民にある。9条を素直に読んでみよう。
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」
 メイン構文は「日本国民は…放棄する」。放棄するのは「国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使」。その目的は「国際社会の正義と秩序を守るため」。この憲法が制定された当時、国際社会では国連による平和維持が現実のものとされていた。正義と秩序を乱す国家には国連軍として討伐する構図であったから、個別国家が個別にならず者国家と戦争をするのは無用なことであるとされていた。
 よって個別国家単位でならず者国家に対して戦争に訴える必要はない。これで「国権の発動たる戦争」が不要になる。並列する場合、ほぼ同等のものを並べるのが文章作法。そこで「武力による威嚇又はその行使」とはなにか。国権の発動たる戦争とほぼ同等ということであれば、頭に浮かぶのが「ロシアによるウクライナへの仕掛け」。周囲にロシア軍を並べて攻め込むぞと脅している。これが「武力による威嚇」。そして2014年に東部2州とクリミア半島を奇襲侵攻で軍事占領したのが「武力の行使」。
日本が仮に現在のロシアの立場にあったとしても、9条がある以上、隣国ウクライナの周囲に攻撃群を並べ、派手に実弾訓練をすることはしないということだ。映画では、いぶきに魚雷攻撃を続けている敵潜水艦を、味方の潜水艦が補足する。敵は気づいていないから、いま攻撃すれば確実に仕留められる。しかし艦長はそうせず、敵潜水艦に体当たりすることで、敵艦の魚雷の継続発射を阻止する。それによって鑑員多数が重傷を負う。武器を使用しようが、体当たりしようが、攻撃は攻撃。そしていずれも9条にいう「武力の行使」に該当するわけがない。政府も艦長も憲法解釈を誤っている。
9条2項は「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」。言わずもがなの規定。わが国は「国際社会の正義と秩序を守る」ために行動するのだから、これに反して、つまりならず者の侵略国家になることを目指した軍拡をしないということに尽きる。
横道にそれるけれど、核ミサイルの保持はどうか。かつて「悪の核」と「正義の核」という分類を唱える者がいた。今に直せば、「侵略や威嚇手段としての核」と「防備反撃のための核」という分類になるだろう。
戦略的忍耐として攻撃を控えることは政治的にあり得るだろうが、法律上それができるか否かは別問題。備えなし、行使する気力なしのまま、侵略を許し、国際社会から侮られることもまた「国際社会の正義と秩序を守らない落第、臆病、卑怯な国家」として非難されることになる。

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