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433専守防衛の理解

日本の隣国と言えば、中国、ロシア、北朝鮮、韓国…。わが国への攻撃意図がまったくない国はない。最初の三国は核を保有するが、どこに照準を合わせているか、知れたものではない。韓国は北朝鮮とは陸続き。潜水艦にミサイルを搭載する意図は何か。
某国がミサイルを飛ばすぞと威嚇してきたときの対応方針はできているのか心配だ。危機が起きる理由はさまざま考えられる。自国内で政権への批判が激しくなってきた際に、その矛先をそらすためというのは軍事力を持つ専制支配者の常套手段。(民主義国でも同じだよとチャールズ・ビーアド先生などは指摘している)。攻撃目標とされる側にとっては迷惑千万だが、歴史はその繰り返しである。
それを断ち切る高尚な理念のもとに作られたのが国際連合の安全保障理事会だが、常任理事国の拒否権濫用でまったく機能しなくなっているのは、だれもが知るところだ。国際社会はとっくに弱肉強食に逆戻りしている。加えて軍事技術の高度化で、攻撃開始されてからの反撃では遅い。
ここで憲法上の「専守防衛」の具体的な解釈と運用が必要になる。以上を前提に「自衛隊の専守防衛と敵基地攻撃」に関する次の二つの考えのうち、どちらを選択すべきか。
甲説:飛来するミサイルを空中で撃ち落とす方法では対応しきれない。一発二発ではなく、大量に打ち込んでくる。防御ミサイル弾が尽きたら? 打ち落とし損ねたら? 最初の一発を打たせる前に、相手の発射基地を叩くのが「専守防衛」である。
乙説:憲法が想定する「専守防衛」は実際の攻撃を受け、被害が出てからしか発動できない。相手の最初の攻撃でこちらの反撃能力が破壊されたら日本は終わり。虐殺されるに任せる。アメリカの報復を恐れて、相手が攻撃を控えることを期待しよう。

普通の頭では乙説は問題外。国民にむざむざ死ねと言えるはずがない。ところが国内政治家の発言を分析すると、乙説に近いことを言う者がかなりいて、またそれを支持する国民がいるようだ。日本以外の国では考えられないことだろう。
では日本国憲法がなぜ「専守防衛」しか認めていないのか。ボクの理解によれば、これはきわめて簡単。憲法9条1項は「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」となっている。この文言は国際連合憲章や1928年の不戦条約の引き写し。侵略戦争をしないという国際常識を明文化しただけ。侵略戦争を辞さないというごく少数の異常な国を除けば、普通の考えなのだ。
日本国憲法は、この趣旨をさらに具体化するために2項で「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と続けている。侵略戦争をしないのだから、その目的に沿った軍事力は持たないよ、発動もしないよということで、論理的に一貫している。
そうした常識的なことならば敢えて明文化しなくてもいいのではという考えもあるだろう。そこで思い出さなければならないのが、日本が戦闘終結を受け入れた前提となる1945年7月26日のポツダム宣言。その6項にこうある。「日本国国民を欺瞞(ぎまん)し之を世界征服の挙(きょ)に出ずるの過誤を犯さしめたる者の権力及び勢力は永久に除去せられざるべからず」(外務省の翻訳原文はカタカナ文)。
「日本の軍閥が二度と世界征服戦争を敢行できないようにするための措置を講じる」というのがこの項の趣旨。これに基づいて国内体制の変革がGHQによって進められた。日本国憲法の制定(形式的には明治憲法の改正)もその一環。「日本の軍閥が世界征服を夢見た戦争が第二次世界大戦であった」という分析については、今では歴史的事実を示して間違っているよと説明できようが、停戦し、武装解除した後で、しかも国内に占領軍が跋扈している状態では、ご説ごもっともと指導に従うしかない。それが言わずもがなの9条1項の規定である。
 日本政府による自衛のための軍備やその行使は、連合軍で組織する極東委員会(FEC)でも、当然のこととしていることは議事録等で明らかになっている。普通の国家であれば自衛の軍備を持つ。国連憲章でもそうなっており、侵略国に集団で対応するための加盟国による国連軍を組織することになっている。日本が占領下を脱して、国連加入するには国連軍への提供軍備を持たなければならないことも自明だった。
自衛軍はあるのが当然なので明記するまでもない。侵略の軍備を否定することで、防衛の軍備が肯定されると考えればよいのである。憲法前文を非武装の根拠とする者がいるようだが、前文のどこにも「非武装」の文字はないことを指摘しておこう。 
 自衛隊員は外国では軍人として処遇されるというが、それが当然なのだ。今どき民主主義国の軍隊であれば、その任務は自国の防衛。間違っても侵略の手段とは言わない。この点、わが国の憲法もまったく同じ。したがって自衛隊という表現は誤解を招く。国防軍と称さなければならない。わが国にも「軍人」が存在するのだ。
それを明らかにするのが憲法の66条2項。「内閣総理大臣その他の国務大臣は。文民でなければならない」。「文民」とは「軍人ではない人」という意味である。日本国に軍人が一人もいないのであれば、この規定は必要ない。軍人とは「かつて帝国陸海軍に属していた人」という読み方もないではないだろうが、それでは国民皆兵であった戦前に成人した人すべてを国政から追放することになり、ポツダム宣言6項の「軍閥を追放する」の趣旨を超えてしまう。
歴史に照らせば、陸海軍大臣に現役軍人を充てることを可能にしてから、日本の政治はおかしくなった。現役軍人は政治に口出ししないのが、民主主義国の鉄則。戦前のわが国でも軍人兵士は選挙権が制限されていた。軍人の身分を離れれば文民になり、政治に参加できる。これがシビリアン・コントロールの原則。アメリカも同じで、アイゼンハワー大統領など元陸軍元帥である。マッカーサー元帥が大統領を目指していたのも、よく知られている。
日本国憲法も正しく解釈すれば、欧米先進民主主義国と骨格思想は変わらない。ではこれら欧米諸国同様に、民主主義を世界に普及するために海外派兵もできるのか。理論的にはできるし、する使命を帯びていると言おう。だって日本国憲法の前文の末尾はこうなっているのだもの。「(自由権と民主主義)の政治道徳は普遍的なものであり…日本国民は、国家の名誉にかけこの崇高な理想と目的を達成することを誓う」。一国民主主義では普遍化にならない。世界の国に広めなければ意味がないではないか、とボクは考える。欧米民主主義国との共同歩調が問われる所以である。
ちなみにポツダム宣言起草者は日本を本来民主主義の国と捉えているから、8項では「日本国政府は日本国国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙(しょうげ)を除去すべし…」とする。専制が素地の国とは違うと認識しているのだ。

日本国憲法は世界平和を目指していると学校で教えられるはずだ。これはまったく正しい。そのためには行動しなければならない。ところが平和とは、なにもしないことというとんでもない間違った用語解釈をする者がいるから、国内が混乱するのだ。卑近な例でいえば、校内でのいじめを見つけた生徒はどうすべきか。
甲説:いじめられている者をかばう。いじめっ子に注意する。先生に言いつける。
乙説:巻き込まれないよう無視する。自分に及んできたら殴られるまま我慢する。
 どちらの生徒が平和主義者か。答えは書くまでもないだろう。

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