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646生殖技術に歯止めを 憲法24条

人工授精は自然妊娠できないカップルへの支援技術のはず。この“則”を踏み外すと人間社会がおかしくなる。昨日の裁判(東京高裁2022.8.19)報道についての感想である。
人工授精用に精子保存していた男性Aが性転換手術で女性になった後に、その精子を用いて他の女性Bが妊娠し、子どもCとDが生まれた。さて、この子CとDの父親はAであるとすべきであるか。東京地裁は「父親とは男性であるが、現在のAは法律上女性であり、女性を父親とする法的根拠がない」として、Aとの親子関係(認知請求)を認めなかった。これには疑問を持つ者が多かったと思う。
今回の高裁判決では、Aが性転換前の人工授精で生まれたCについては法的な親子関係を認めるが、性転換後(すなわちAがすでに男性でなくなった後)の人工授精で生まれたDについては地裁同様に親子関係を否定した。性転換を法的に認めるのであれば、高裁判決は妥当な判断だと思う。
しかるに“進歩派”が、高裁判決でCとDで別判断になったのが不十分であると噛みついている。新聞でコメントしている某教授は、「生まれてきた子に父親がいないのはかわいそう。生殖技術はどんどん進むのだから、それに合わせて法制度を改正し、性転換後の女性を父親と法定すべしとの主張しているのだ。性転換そのものを認めないのがこの教授の立場であるならば、DもAとの間で父子関係になるが、「Aは女性であると同時に父親でもある」というのでは支離滅裂、「木を見て森を見ていない」視野狭窄さに驚く。たしかに生まれてきた子に罪はない。ならば今後、こういう事例が起きないように法制度を誘導すべきではないか。不幸な子を作り出しておいて、それを救えとの論法には、社会的にも学術的にも賛同できない。

似た事例を考えてみよう。人工授精で子が生まれるのは同じだが、子の出産前にAが死亡していた場合、法律上Aとの父子関係はどうなるか。妻の10か月の妊娠期間中に父親が死亡することは確率的にあり得るから、その場合でも妊娠させたAが法律上も父親とされる。人工授精であっても理屈は同じはず。では人工妊娠の時期自体がAの死亡のはるか後であればどうか。
 生命の誕生時期の捉え方に関わる。もっともはやいのは“受精時”であろう。普通の妊娠ではこの時点でAが生存していなければ、Aが父親になれる可能性は0%である。よって法律的に精子提供者との父子関係を承認することはできない。このことは最高裁判決(2006年9月4日)で確認されている。人工授精を普通の妊娠を補う技法と考えれば当然だろう。
 凍結技術は将来どこまでも伸びるだろう。卵子も保存して、AもBもいなくなった後に人工授精する(この場合は他の女性の子宮を借りることになる)などは可能になるはずだ。いわゆる“進歩”派は、技術に合わせて法制度を変えるべきだと主張する。家畜ではそれでもいいかもしれない。父親がどの個体であるかを確定する必要がないのだから。だが人間社会は違う。両性による家庭での子の養育を基本とする社会(日本国憲法もそう定めている)においては、父親不在の子を法制度が作り出すことをしてはならない。ここで“進歩”派は実体がない擬制の父親を法制化しようとする。それに何の意味があるのか。というか憲法24条1項に抵触するのではないか。現実にも子にとって必要なのは、現に養育してくれる実存の親であるはずだ。
 
“進歩”派の議論は、生殖技術の進展を手放しで賞賛することから始まるようだ。この前提がおかしい。家畜相手ではいざ知らず、人間にこの種の技術を無制限に適用することに疑問を持たない感覚が理解できない。繰り返すが、生殖技術は代替手法のはず。何を代替するのかといえば、父親になるための生殖行為の代替である。ということはその者がいなくなれば、代替技術を行使する必要もなくなるはず。つまり法的に決着をつけるべきとは簡単である。

 精子提供した男性が存在しなくなれば、その凍結精子は無条件に廃棄されなければならないと法制度として、それを実行させることに尽きる。そしてここでの「父親がいなくなった」には、死亡だけでなく、男性から女性に性転換した場合も含まれることになる。
これは受精卵の凍結保存においても同じだ。人工授精時期にはAとBは存命であったが、それを100年後(当然二人とも死んでいる)に解凍して成長させるなどは、倫理的に認めるべきではないだろう。

 生殖技術を野放しにしておくと何が起きるか。ごく簡単な精子保存でおいて、Aが子をなさずに死んだとしよう。それから何年もたって、彼に富裕な叔父がいてAが生きていればその相続資格があることが判明した。凍結精子があればBが資産ねらいでAの凍結精子を用いて人工妊娠し、代襲相続人であるDを誕生させることが可能になる。生殖を損得の手段とするなど言語道断というのが、普通人の感覚だろう。
「生殖技術推進」と「人工中絶容認」(プロライフ)は、一見、逆の方向に見えるが、現生の利益だけを優先し、ヒトの命の価値を軽んじる点で共通点があるように思える。

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