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405総裁選で日本を『日本を取り戻す』

菅(すが)総理の退陣表明で、俄然マスコミが盛り立てているのが自民党の総裁選。議院内閣制のわが国では絶対多数党の党首が次期総理になる。ただし衆議院の任期切れ、総選挙が直後に控えているから、新総裁(=新総理)は総選挙で勝利することが絶対命題。さもなければ三日天下の総理で終わる。
ということで総裁選びでは、当座の選挙向けの顔として“見栄え”が優先。信念や政策、実行力は二の次、三の次になっている。そんなことでいいのか。
今の国際情勢は「民主主義」vs.「専制主義」、「人権尊重」vs.「圧制抑圧」、「平和共存」vs.「侵攻併呑」という真反対の信念を持つ国家同士がガチンコでぶつかりあっている。そのなかでどっちつかず、旗幟不鮮明でただよっているのがわが日本国だ。

すでに何人もが総裁選に名乗りを上げている。それぞれ耳に聞こえがよい公約らしきものをたくさん並べている。政治が日本国内だけで完結するのであれば、巧言令色もいいだろう。だが、現実の国際政治は真剣勝負になっている。政治(国家リーダー)が方向性を間違えば、国も民族も衰亡してしまうのだ。危機の時代に総理たらんとする者には大局ビジョンを描き、国民を率いる洞察力、説得力、統率力を有していなければならない。

石破茂さんの『日本を取り戻す』を図書館で読んだ。同氏が自民党幹事長であった2013年の著作だ。与党であること自体が目的化し、総理を1年ごとにころころ変えていた自民党には任せられない。国民がそう思ったから2009年の総選挙では、消極的選択で民主党へのオセロ的な議席変動が起きて政権交代になった。その民主党政権もまた1年ごとに総理を変え、国力を疲弊し隣国に侮られることの繰り替えしだったから、2012年の総選挙では再度の消極的選択が起きて、自民党に政権が戻った。同書では「(2009年は)民主党がいいから選挙に勝ったわけではなく、自民党があまりにダメだったから、国民の皆さまが民主党に票を入れた」のであり、「(2012年)は自民党が素晴らしいというより、他の政党があまりにダメなので、結果的に自民党や公明党が勝った」と分析している(44頁)。
書名の『日本を取り戻す』とは、「日本の未来を取り戻す」ということであり、「将来にわたって持続可能な、若い人が夢を持つことのできる日本国を取り戻す」ことなのだと説明している(56頁)。ボクは納得したが、違う読み方をする人もいるようだ。アマゾンの読者書評欄では、「強硬な言葉で国民を扇動し、戦前の社会体制にしたいという意図が現われている」などの酷評が載っていた。「戦前の日本社会は暗黒で、現代の共産主義国がバラ色のパラダイス」とは、中学生時代の担任教師の常套句だったが、今もそう信じている人がいるようで驚いた。
石破さんの著書に戻ると、北朝鮮に関しては「三代にわたる金王朝による独裁体制そのものを早く終焉に導いていかねばならないのです。独裁体制が続くかぎり、拉致問題は決して解決しない。私はそう思っています」とある(88頁)。同朋を不当不法に誘拐した者には、外国人だろうが日本法に基づく処罰を受けさせなければならない。それが主権国家の最低限の存在意義であり、石破論に異議あろうはずがない。
弾道ミサイルなどの攻撃を未然に防ぐための敵基地(策源地)攻撃能力保持の合法性は国会答弁などで確認されている。ところがその能力を自衛隊に保持させることは議論すらされない(93頁)。それはなぜか。①攻撃される可能性がないからか。②技術的に不可能だからか。③経費を工面できないからか。④飛来するミサイル迎撃の方が有効だからか。⑤ミサイルをぶち込まれた方がよいと考えるからか。ボクはミサイルで殺されたくない。国民は誰もがそう考えているはずだ。しかるに全国会議員、全政党がこの問題では思考停止。それはなぜなのか。本書には、一番知りたいこの点への記述はなかった。
尖閣に関しては、「実効支配を強めていくことが必要です。漁業者の安全を確保すべく船溜りをつくる、桟橋やヘリポートを設置する、あるいは環境調査を実施する、そうした措置を検討せねばなりません」(104頁)。「(中国に)つけ入る隙を与えないためには、まず国際法上の「無害通航」に当たらないケースに対処できる国内法整備が必要です。…海上保安庁の巡視船が「出ていけ」と言っても出ていかない場合にどうするか、ということも決めなければなりません」(105頁)。いちいちごもっとも。本書発行の2013年から早9年経過している。その間、石破さんは衆議院に議席を保持している。一派を率いる領袖でもある。しかるにどれ一つ実現していないのはなぜか。国会議員は評論家ではない。政治家は政策を実現するのが使命のはずだ。
そして本書の主題。「自由民主党は、結党以来、自主憲法制定を党是としています」(178頁)。巻末に同党が正式に機関決定した「日本国憲法改正草案」が付されている。現行憲法の前文と逐条を分析し、現状に照らして必要な事項を該当箇所に追加した改正案の形になっており、その気になれば国会に上程できる完成度だ。
ならばなぜ提案しないのか。衆参各議院でそれぞれ総議員の3分の2以上の賛成がなければ発議できない(現行96条)ハードルに躊躇しているのだろう。改正草案(100条)では総議員の過半数に緩和を提案しているが、この論点を国民はほとんど理解できていないと思う。マスコミも情報提供しない。
憲法改正の決定権がA論:国民にあるのか、B論:国会にあるのかで、諸国の憲法は別れる。日本国憲法はA論を採っている。すなわち“国会が発議”することで憲法改正を議題とする世紀決定の場である“国民投票”に付されるのだ。改正したい国民が多数いるのに発議されないのでは憲法の趣旨に反する。憲法制定権者は同時に改正権も持っていなければおかしいことは自明だろう。かといって年に数度も憲法改正の国民投票が行われるのは異常だ。そこで国会での発議のハードルで調整する。これが日本国憲法の仕組みなのだ。
国会の普通の決議(例えば法案の制定や改正)は、出席議員の過半数の賛成で可決する。定足数は3分の1(56条)だから、決定に必要な最低議員数は総数の6分の1である。どういうことかといぶかるかもしれないが、議案に対しては賛成者、反対者のほかに、立場未決定・保留の者がいる。保留者が過半であっても、そうした者が一時議場退出(欠席)することで、残り3分の1の過半数(総数の6分1以上)で賛否を議決できるのだ。民主主義における知恵である。
憲法改正の決定権が国民投票である(A論)とする以上、国会の発議要件は国民投票機会を損なうものであってはならない。この点で、総議員の3分の2以上は国民の憲法制定権を侵害している。「総議員の過半数」(自民党改正草案)か「出席議員の3分の2以上」とすべきだろう。
B論に依って立つならば、衆参両議院それぞれで総議員の3分の2以上という厳しい要件は考えられるが、この場合には国民投票は意味がないから廃止するのが筋だ。

2021年9月11日朝の時点では、石破さんは総裁選に名乗りを上げていない。それならば立候補の面々に、石破幹事長の時代に練り上げた同党の憲法改正案の実現についての決意を問いただしてはどうか。民主党政権(2009‐2012年)の「野党時代、谷垣総裁のもとで、われわれは「失敗の本質」を一つひとつ検証しました」(53頁)とある。その成果としての憲法改正草案のはずだからだ。
「憲法は票にならない」と言うような者には、総理総裁はおろか陣笠代議士もやめてもらいたい。憲法は国家の礎。しっかり遵守しなければならない。ということは遵守するにふさわしい条項であるべく、絶えず検証されていなければならないはずだ。その結果、今回も改正すべき条項はないというのであれば、けっこうなことである。そうではなく、検討や議論そのものをしない、させないというのでは、その社会が事実上専制化していることを意味する。

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