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夢の鉛筆走らせる(雑記)

本当に取り止めのない、夢のような夢、しかしながら現実的な話を鉛筆で書き連ねます。

ワクワクと安心

 小学校の頃、隣の小学校の校区にある駄菓子屋に遠足のお菓子を買いに行くのが好きだった。駄菓子屋の名前は、「たからじま」だとかそんな名前だったと思う。大きくなったら行かなくなったけど、もうお店は無いだろうなと思う。なんとなく、ですが。
 放課後、校区の外に遊びに行くときはお母さんの許可を取らないといけなかった(と言っても、懺悔すると、黙って行ってたこともある。ごめん。)けれど、遠足のお菓子を買いに行く時だけは許された。自転車を飛ばして、いつもの遊び場である公園と逆方向に漕ぐ。ワクワクしたなあ。

 駄菓子屋さんの店内は、同じように遠足のお菓子を買い求めにくる小学生で密集している。クリーニング屋と駄菓子屋を兼業している店内。店番をするこわもてのおもろいおばちゃんが、列を成す子どもたちのお菓子の合計金額を、淡々と暗算で弾き出してゆく。あの頃の遠足におけるおやつの購入可能規定額は、150円だった。計算間違いは死活問題だ。お菓子の選択ミスも死活問題。楽しかったな、駄菓子屋さん。ほんとワクワクした。

 今ふと、人生を思い返せば、私は「境界を出る」ことが好きなんだと思う。学校区、遠足、グループ、県境、国境、集団、違う文化、他人の日記、匿名で書く秘密の文章、知らない人と知り合うこと。
 でも、「属すこと」や「慣れてるもの」に安心を見出すタイプでもあるだと思う。帰る家、友達、家、いつも聴く音楽、内輪話、日本食、会社、言語、自分の匂いが染みついた布団の中。
 駄菓子屋で150円分のお菓子を買う冒険をしたあと、いつでも「ただいま」と帰れる家があった。駄菓子屋で威張ってる中学生にからかわれても、あとで死ぬほどそのことについて愚痴りあえる友達がいた。
 物理的に安心できる空間が常にそばにあったのは、運が良いことだったのだろう。大人になってからもなんとか居心地のいい環境や時間を自身で選んで身を置けているのは、今も「ただ運が良いから」だろうか。いや、多少経験値もあるのかも知れない。努力の末?どうだろう。今の私がどちらであろうとこの際どちらでもいいのだけれど、最近よく心によぎるのは、未来ある子どもたちにとって、「ワクワクできること」と「安心できる場所」って、どんなことだろうか。子ども時代が自身から遠くなりゆく中、子もおらぬ私だけれど、子がおらぬ故に思うことかもしれない。もし私が将来、我が子を持たずにいた場合、世の子どもたちに何か還元したいなと思えてきた。「ワクワク」と「安心」。サービスや付加価値ではなく、どちらかというとあの日の“たからじま”のようにそこにある存在で、そして自分の匂いがしみついた布団のような、帰る場所。どんなことだろう。それって、今の時代で例えると。
 
 私たちの子ども時代よりも、子どもをとりまく環境はがらっと変わっている。タブレット端末はひとり一台ずつ配備される時代。教育格差も広がっている。「親ガチャ」という言葉もあるけれど、そもそも、親にとっても過酷な環境よな。子どもはどんどんと家の外の文化を家の中に取り入れたがるし、多感に違いを感じるよな。情報。娯楽。学習。興味。生活圏内の境界の外のこと。きっと、インターネットの発達のおかげで、私の子ども時代よりも簡単に「境界」を越えられるのだと思う。それは羨ましくすらもあるけれど、そんな中、そんなに簡単に何でも知れちゃう中で、逆に何にワクワクするんだろう?とも思っちゃう。

🍒🍒🍒ほんとにとりとめのないことだけど2🍒🍒🍒

物持ちと所有観

 夫と一緒に住むようになり、夫の実家に行くようになって、物を買うことや持つことへ対する考え方と所有に対する価値観が違っていてびっくりすることが多々ある。

 まず私。買ったものは、特段の理由が出来る(壊れる、見栄えが悪くなるなど)まで使い続ける。同じようなものを何種類も持ちたがる。使わなくなったものは執着なく捨てられる。スペック、高価格帯に執着はないが、長い目で見て問題なく使えそうなもの、無難なもの、評判(口コミ)、バランスがいいものを選びがち。
 コスメで例えて言うなら、デパートのコスメ(デパコス)に憧れるけども、ドラッグストア(ドラコス)でそこそこのものが買えるのなら、それでもいい。いろんな色を日替わりで使いたい。ひょんに買ったドラコスが自分に合えば超最高。だけど、たまに思い切ってデパコスを買うならば、公私共に使いまわせるのを調べて買って、底見えするまで酷使する。
 買い物は足で稼いで目で見たいタイプ。
 中学生のときに元カレにもらったシャーペンをまだ使うぐらい物持ちが良いけど、これを元カレにもらったものであること、中学生のときから持ってることを最近まで意識すらしてなかった。(何の話やねん)

 夫。買ったものは擦り切れて破れるまで使う。同品番を繰り返し何回も買い、ストックする。使わなくなったものにも執着があり、手元に残したがる。評判や売れ筋にこだわりはないが、自身の直感と総合的なスペックの高さを重視する。電子書籍よりも質感のある紙の本を大切にするタイプ。
 例えて言うなら、デパコス・ドラコス問わずに、自分がいいと思ったら何でも使うけど、お気に入りが廃番になることを恐れていつもストックする。割れたアイシャドウや使い切ったリップも、思い出だから捨てない。自分がビビッと気に入ったものであれば、客観的に見ると使いづらそうなアイシャドウパレットでも飛びつく。
 買う腰は重いが、買うと決めると早い。


 私の実家。ものをあまり溜め込まない。所有物の回転率が高い。常にコスパが良くて新しいものを買い替えている。気に入らなかったらすぐに買い替えるが、使ってみて気にいったものは壊れるまで使う。ブランドや値段にこだわりはなく、海外の安価なブランドも取り入れる。買うまでのデータ検索が入念。
 例えて言うなら、デパコスから100均まで、選択の射程範囲が広いけれど、一種類を一個ずつしか持たない。めっちゃ調べてから買うし、万一ちょっとイマイチでも、すぐ捨ててすぐ他のを買い替える。

 夫の実家。古いものを大切に使う。家にものが多い。年季の入ったもの、質の良いものに価値を見出す。新しいものに飛びつくというよりは、多少高くても、デザインやスペックが気に入ったものを買う。
 例えて言うなら、基礎化粧品は長い目で見て、質と信頼重視のデパコス。アイシャドウやリップぐらいなら、たまにはドラコスも取り入れてもいいかな。たくさんの種類を持ってるけど、同じ色のものを毎日使う。


 漠然とだけれど、いつか「お店屋さん」をやってみたいなーと思っている。私は今の仕事をする前は、めっちゃお店屋さんだったのね。毎日、入荷する物を売ることだけ考えてた。利益率がどうの、今日の予算はどうの、トレンドがどうの、機能性がどうの、本社の意向がどうの。この店を選んでくれる人が買いやすくて気持ちいい売場を目指していた。それはただただ、楽しかった。
 のだけれど、上記のように家族間でもこんなに購買、所有に対する意識が異なっている。一から何か商材を選んで誰かに売るとしたら、何を売ればいいだろう。ものが地球上にわんさかと溢れる世の中で、あえて「お店屋さん」として改めて私が売りたいものは何だろう。愛されるもの?長く使えるもの?気軽に買い替えられるもの?デザイン?環境?そこの導入に理念が無いと、「店」としての根幹がズレると思う。

 漠然とした理想はあるけれど、私にはまだ夢のペン入れが出来ないんだなあ。

🍒🍒🍒とりとめのない話は続く🍒🍒🍒

 子どもたちのワクワクと安心を与える何かをしたい気持ちと、「お店屋さん」をしたい気持ち。この二つをいろいろと掛け合わせたり割ったり足したり引いたりと考えてみた。
 こういうふうに思うのは、子ども時代にお出かけて訪れる「お店屋さん」がワクワクした経験があって、実際に地元という境界を出た土地で「お店屋さん」な職業に就いて、今は少しだけど子どもに関係する仕事をしているからこそ、こんな風に漠然とだけど、夢を描き始められたんだと思う。
 今までの人生が無ければ、こんな風に、二つの夢も生まれなかったし、掛け合わせられなかった。
 なんだろう、子どもがワクワクして安心するお店屋さん??なんだそれ。。。なにそれまじで。

 「もしも自分に子どもが持てなかったら」とかいう前提付きの、ポジティブなんだかネガティブなんだか分からない展望だし、「じゃあもし我が子が出来たとしたら、その夢はどうなるんだよ」と問われると、うーん、わかんないんだけどな。
 でもなんかね、こうやってちょっと書いてみると、「私もいろいろと、生きながら考えられてはいるんだな」と、前向きになれました。

 さ、おい、もうこんな時間やないか。夢を語ってると、時間が足りひんのやね。
 漠然とした夢の、これまたほんの小さな切れ端の話だけど、この間、肉村ハム蔵さんとぽわーっと夜のカフェで話したのね。そして、それを膨らませて、もう少し詳しく書いてみた。夢を語り合える友達が、大人になってから出来てとっても幸せな夜の帰り道だったよ。いい一年よ。そんな感慨がある、いい2023年の暮れですよ。

 おやすみっ。赤裸々に書いたので、ちょっと恥ずかしいけど、夜中のテンションなので書き残して寝て、気分で消したらごめんの。

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