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どん底で始まり、途中怒って、最後すっきりする日記(私が)

 絶望は木曜日のお昼に硬めのあんバターフランスを食べた日の晩にやってきやがった。歯が痛い。ジクジクと、奥から三番目の下の歯の付け根のあたりが痛い。前の週に軽い違和感を覚えて、勇気を出して歯医者に行ったばかりである。歯が痛い。「あの」歯が痛い。よりによって、年度末の忙しい、花粉症が一番ひどい、こんなタイミングで歯が痛い。終わった。
 私の口には、乳歯が残っている。永久歯が生えてこず、残ったままになっている乳歯がいる。子どものころから、今日に至るまで、「この歯の下には大人の歯がいないから、大人になっても大事に磨くんだよ」と歯医者に行くたびに口すっぱく、再三言われたあの歯が痛い。そっと触ると少しぐらぐらとしている。幸いにして飲み物を飲んでもシミないけれど、もちもちパスタを噛むともちろん痛い。

 色々調べてみた。大人の乳歯の寿命は、だいたい持っても20代から30代まで。私が今32歳だから、この痛む乳歯ちゃんは天寿を全うしたと言っても過言ではない。病める時も健やかなる時も、私とともに人生を歩いてくれてありがとう。たまに歯磨きをサボって眠ってしまってごめんね。歯軋りをしていたこともあったよね。虫歯になって、銀歯になっても、詰め物が取れてしまっても、おいしいものを一緒に食べて、一緒にいてくれてありがとう。

 で、問題は、この乳歯ちゃんの行く末。選択肢としては三つ。いや、四つ?
①ひとまず神経を抜いて、人工物で埋める。
②両隣の歯を削り、ブリッジで歯を作る。
③抜歯してインプラントをする。
④抜歯ののちに歯列矯正をして、歯の隙間をなくす。
 
①はひとまずの応急処置。神経を抜いた歯は脆くなるので、いずれ②〜④の処置をしないといけない。②は以前、違う歯医者に行ったときに、乳歯の隣の歯がやや向きが変に生えているから難しいと言われたことがある。となると、③と④の保険適用外の高額医療。検索して眠れなくなる。③のインプラントで、歯一本あたり安くても40万円近く。抜歯してからインプラントが適合するかの検査にも数ヶ月かかる。出血や麻酔治療を伴うから、妊娠を考えている人には不向き。④の歯列矯正も、期間が少なくとも1年間はかかる。費用もインプラントよりずっと高い。友達は確か、100万円以上かかったって言ってたな。渦の最中に始めて、もうすぐ終わるって言ってたな。もう終わったのかな。100万。100万円かあ。無くはない。無くはないけど、今?健康な口腔環境は必要。私は最後まで、食べていきたい。100万円って、高いの?安いの?そんなことまでしなきゃいけない?100万円に値するの?ていうか、ものぐさな私にできるの?やらなきゃなの?
 ……ああもう。なんで、するならするで、もっと早くしなかったんだろう?悔しい。マスクで口元が隠れていたあの時期に?もっと早くになんでしなかったんだろう。悔しすぎて泣けてくる。考えても仕方のないことが頭に押し寄せてきて、ついでに花粉症で鼻が完全に詰まって、泣こうとしても息ができなくて、もう、泣くことすらままならなくて、イライラする。悔しすぎる。さらに、このタイミングで月のものまで来た。何もかも最悪である。歯が痛いっつってんのに、歯医者の予約も取れねえし、どうしろってんだよ。歯も気持ちも内臓も鼻も全部が最悪なまま、痛み止めを飲んで無理やり眠った。

 翌朝、やや気持ちがスッキリしており、開院と同時にダメもとで再度電話をかけたら、当日の夕方にキャンセルが出たとかなんとかでねじ込んでもらえた。歯はまだ鈍く痛い。雨が降っているから、花粉症はちょっとマシ。夕方の予約時間まで精神をまともに保てそうにないから、映画館に行くことにした。「BLUE GIANT」の劇場版。夫が公開翌日に行っており、漫画も全巻家にある。ちょっとしか読んだことないけど。周りの評判も良い。行ってみよう。昨日から何にも食べていないけれど、歯が痛いからもはや空腹も感じない。
 作品は、サックスプレイヤーを主人公とした話。学生の頃、クラリネットを吹いていた私は、「3年」でどれだけ練習すればあの作中のように人を惹きつける音楽奏でられるようになるのか、そこの前提時点で心を動かされるものがあった。吹きすぎてリードに血が滲むことなんて、私にはあっただろうか。19歳の頃、私はどれだけ夢中になれていたかな。今は?今は何かに夢中になっているかな。夢中に、とは言えないけれど、頑張ってはいるのかな。血が滲むほど?……いや、それは程遠いな。
 私はもう若者とも言えず、でも作中の大人のように若者を見守れるほど大人であるとも言えない。私の譲れないことってなんだろう。やらないと後悔することってなんだろう。うん。今は「健康な歯を失うこと」かもしれない。歯がないと、食べられない。あなたとも、あの人とも、楽しく食べられない。私の人生の楽しみの大部分が消えてしまう。イカが噛めないのも、水菜が噛めないのも嫌だ。どうせいつかやらないといけない治療なのならば、お金があるうち、時間があるうちにできるのならば、今がそのタイミングなのだろうよ。そのためには、まず、前に進もう。「BLUE GIANT」を観ながら、ボッロボロ泣いた。もう一回観にいこう。漫画も全部読もう。夫と一緒に行こう。映画館を後にしながら「歯の治療を頑張ろう」と決意した人なんて、私だけな気がするけどさ。少なくともあのシアターの中では。

 夕方、歯医者に行って、インプラントまたは歯列矯正も視野に入れて治療をすすめたいと申し出た。ぐえっとなりながら歯形を取り、また数日後に訪れることになった。数日後、具体的な金額と治療プロセスを複数提示してくれるそう。期間や金額、それに伴う苦痛や制約を考えるだけでオエー吐きそうーって感じだけど、まあなんと言いますか、そこは乗り越えるしかないのだよな。怒りもある。もちろんある。もっと早くやっておけば!という自分への怒りはおさまったけれど、そもそもなんで生まれつき生えてこない永久歯のために、うん十万、うん百万も支出せんといかんのよ、と、沸々と怒りが湧き出てくる。子どもの頃、仲の良かった友達が、ワイヤーで歯を矯正していた姿を思い出す。あの子は今、歯のトラブルはないのだろうか。どのくらい痛かったのだろうか。今、幸せだろうか。Hey,みんな元気かい?Hey,みんなどうしてる?(by KinKi Kids)
あー歯痛い。夜になったらズキズキしてくる。歯の痛みで、またイライラしてくる。肩もこるし、目もシパシパする。そんな時、階上の家から「楽しそうな声」が聞こえてきた。オブラートに包むけれど、「愛の声」、である。だいおんじょうである。うるせえ。おい、なげーな。いつまでやるんだ。あ、終わった。ガラッと、窓が開く音が階下まで響いてくる。この家にもう3年以上住んでいるけれど、こんな音が聞こえてきたのは初めてである。そっか。みんな生きてるんだな。ムカつくわー。ムカつく。楽しそうに笑ってんじゃねーよ。……いや、私ももっと楽しもう。ネガティブとは長い付き合いだけど、ポジティブとはもっと大親友やん。冷蔵庫のプリンを食べよう。セブンイレブンの「きみだけのプリン」もはや、歯のみならず、顎、耳下腺まで痛い。私もまた、痛みを耐えながら、生きてる。

 一年後の自分、何をしてますか?夫、転勤した?私、いまどうしてる?インプラントにした?歯列矯正にした?それとも応急処置をしてから逃げてる?仕事どう?花粉の飛散状況はどう?悲惨?パソコンとは仲良くやってる?どんな音楽を聴いている?楽しく生きてる?肉、噛めてる?この家、まだ住んでる?生きていて楽しい?なんでも良いけど、令和4年度の自分より楽しい令和5年度だといいな。ってか、そうしような。ネガティブとポジティブをいい感じにリードに繋いで、どっこい生きような。3月19日は「きみだけのプリン」記念日。

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