時間は、人間関係をダメにするのか

 コロナ後の世界の走り始め、それこそ一回目の緊急事態宣言が発令された頃くらいか。長年に渡って、当たり前のように定期的に集まり、居酒屋で馬鹿話をし、締めにお姉ちゃんのいる店に行って盛り上がって解散する、という付き合いを続けてきた友人たちと、しばらく対面で会うことが無くなった。その一方で、リモート飲みなる発明品が世に産み出され、これまで数か月に一度顔を合わせる程度だった友人たちとの付き合いの頻度が、週一に激増したという変化もあったりした。また、これまでの世界であったら、物理的な距離もあって絶対に顔を合わせて酒を飲むこともなかったような地元の高校の同級生などと十数年ぶりに再会し、画面越しではあるが近況について語る、というようなハプニングもあったりした(リモート飲みはコスパが抜群に良いので、翌日きちんと家族の一員として機能すれば、妻から文句を言われることもない)。

 さて、そんな日々も長くは続かず、自分も含めて大体8人くらいでつるんでいた友人関係であったが、自然淘汰が進んで行き、学生時代以来これまでにない頻度で盃を交わし続けることとなった友人と、もはや全くと言っていいほど顔を合わせることもなくなった友人とに二極化されていった。

 ある友人とは、こんな世の中にならなければ絶対にあり得なかった展開ではあったが、十数年来の付き合いであったにも関わらず、つまらないことがきっかけで私の方から絶縁した。彼は、サシでリモート飲みの約束をした日に、子どもの寝かしつけに入ったまま眠ってしまったという理由で、当たり前のようにドタキャンを繰り返し(私も辛抱強い方なので、そんなことが十数回に渡って繰り返された)、特に悪びれる風もなかった。私とて同じ状況である。眠いのを我慢して子どもを寝かしつけ、洗濯物を片付け、食器を洗い、子どもが散らかした部屋の片づけをして、リモート飲みに参加している。しかしながら、彼の発言の端々からは「自分は共働きで忙しく、その上に家事育児まであってクタクタだから仕方がない。お前は嫁さんと揃って育休中の身で、何も無いんだから、忙しい俺に合わせて当然。」という風な主張がにじみ出ていた。世の女性は、終ることなき家事育児に従事し続けることの辛さも知らない男性からこうした偏見の目を向けられ、ずっと理不尽で居心地の悪い生活を送っているのだろうかと、我が事のように痛感した場面でもあった。

 詰まるところ、そうした彼の陳腐な主張は価値観の問題なのでどうすることも出来なかったしどうするつもりもなかったのだが、そもそも人との約束を守れないという根本的な部分で彼の人間性を疑わざるを得ず、長期的な視点で見たときの人間付き合いがキツイと感じたのが決定的な要因だった。これが、コロナ前の世の中で、リモート飲みなるものが存在せず、あくまでも酒を飲むのは日程を合わせて、相対で、かつ、居酒屋でという条件下だったら、こうした展開にはならなったと思う。現に十数年間、そういったことはなかった。

 そうしたことがあったりした間に、ふと、かつての友人のある発言を思い出していた。「テレビドラマや売れてる歌手の曲の中じゃ、久しぶり!元気?とかいうところから始まって、そっから急に人生が好転するようなこともあるけど、あんなのは全部嘘だと思う。会わない時間が長ければ長いほど、人間関係はダメになっていくと思う。直接会うことが大事。良くも悪くも、時間が人間関係をダメにしていくんだと思う。」そういえば、期せずして絶縁した彼と最後に顔を合わせたのはいつだったろうか。もう随分と長いこと、直接顔を合わせて話をしていなかったような、そんな気がする。

 これまた別の友人の話だ。彼は、成績は良かったのだが、なんというかバンドマン気質が抜けないところがあり、卒業後は音楽の専門学校へ進学した。本人が見てないことを良いことにはっきり書いてしまうが(見ていたらどうしよう)、音楽の才能があるとはとても思えず、芽など出るわけもないことは明らかだった(何なら小学から大学までダラダラと音楽をやっていた自分の方がセンスはよっぽど良かった気がする。笑)イケメンで、女癖が悪く(本人にその自覚はない。たとえ同時並行であったとしても、どの女性に対しても常に全力だと主張していた)、自己愛の強い人間であった。上京後、3年くらい頑張ったが音楽の道で自分の花は咲かないことを自覚したようで、その後、理学療法系の道に進んだ。元々、こうと決めたら没頭するタイプの人間なので、音楽を諦めて別の道へ進むと決心してからは早く、すぐに大学に入学し、4年間のキャンパスライフを謳歌して(そこでも年上で頼りがいのある大人のイケメンということで年下の女を食い漁った)、国家資格を取得し、しばらくは病院勤務だった(当然、勤めていた病院でも女を食い散らかし、居心地が悪くなって転職したりしていた)。

 さて、女性関係の話題をカッコ書きで差しはさみすぎて、とんでもない奴だという印象だけが植え付けられてしまっているかもしれないが、基本は努力家なので、今ではフリーの整体師的な感じで独立し、それなりに引き合いもあり、忙しい毎日を送っているとのこと。そんな彼とも、最後に顔を合わせたのは一体いつの事だったろうかと思う。こんな世の中で、整体とかリハビリのような相対でサービスを提供せざるを得ない職業なので、彼の内なる職業倫理観的に飲み会は完全自粛しているようだ。となれば、リモートで飲まないか?という誘いを私の方から何度もかけてみているのだが「お前とは来るべき時が来たら直接飲みたい」というような、よく理解できない彼なりのナルシスト的な理由でスルリとお断りされる日々が続いている(もちろん、彼が私とはもはや画面越しにも会いたくないと暗に主張している可能性もなくはない。彼とのこれまでの経緯は、またどこかで書きたい)。

 はてさて、彼の言う「来るべきとき」とは、一体いつの事なのだろうか。コロナが収束した日なのか?コロナが収束する日とは、一体いつなのか。全国民のワクチン接種が終われば、コロナは収束するのか?それを決めるのは、彼の中の価値観なのか、それとも政府やWHOが収束宣言を打ったときなのか。俺は、いつまで彼のナルシスト的な「来るべきとき」を待っていればいいのか。これではまるで、彼からのプロポーズを待ち詫びる倦怠期を迎えたカップルのような心持ちではないか。もう私も齢35。これ以上は待てない。。。

 さて、箸にも棒にもかからぬ冗談を差し込んでみたが、彼はきっと「久々に友人と会う」という行為に喜びを感じるだけなのであって、別に私と会って話をしたいという訳でもないのだろう。久しぶりに会って、話をして、互いのこれまでの変化を共有し、サヨナラを告げて明日から自分の世界へ帰って行く。そういう漫画のような清々しい逢瀬の交わし方に美徳やエクスタシーを感じるのは勝手だが、現実の人間関係はもっと泥臭いもののような気がする。「久々」にこだわり過ぎて、そもそもの土台となっている「友人関係」が消えて無くなれば、もはや久々も何も無いのだ。そのバランスを取りながら、丁寧に繋いでいくのが人間関係というものだと思う。

 私は、かつての友人から聞いた「時間が人間関係をダメにする」という意見が好きだ。かつての友人と書いているのは、今はもう友人ではなくなってしまったからである。私は、かつての友人の、現実を直視できない我儘者のようではあるのだけれど、無色透明で真っすぐに刺さるような感性が好きだった。人間関係に対するこだわりが無駄に強いやつだった。上京後、大学に馴染めずに退学した彼は、専門学校で資格などを取得して自信を取り戻し、大学に対するトラウマを克服したいという執着を捨てきれずに再び大学へ編入し、またしても大学に馴染めず退学してしまった。その後、法律系の資格を取得し、地元での開業を目指すようなことを言っていたが、その資格取得に至る過程で、「お前とつるんでいては合格することが出来ないから付き合いを止める」と一方的に告げられ、関係が終わった。自分としては、自ら切ることはあっても、向こうから切られるという経験があまりなかったので、とても印象に残っている出来事だ。彼とであれば、ダメになってしまった人間関係を、ダメになる少し前に時間が戻してくれると良いかもな、といような事を、偶に酔ったときに期待してしまうこともある。

 人間関係の棚卸は、人生で一番重要な整理整頓作業の一つだと思っている(年末年始に、一年の振り返りも兼ねて、必ず実施している)。そうして、自分側の都合だけで棚卸作業をしているときには、常に自分も必要ないものとして相手方から廃棄される可能性があるという事を意識しなければなと、必ず戒めのように考えたりしている。時間は人間関係をダメにするのかどうか。今一度、夏の夜長に考えてみたい。

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