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瞑想と武術

UnsplashKaterina Mayが撮影した写真

以前、マインドフルネスの講座を受講したことがあります。
マインドフルネスは広い意味での瞑想の中の一つ。
瞑想と言うと無我境地のようなイメージ、だったんですが、そこでは何も考えないことではなく、むしろ認識すること、意識すること、気づくことと教わりました。
まずは自分自身が無意識にやっていること、それを意識の下に持ってくる。
通常、呼吸は呼吸をしようと思ってしていないですよね。
そこで、どのように呼吸をしているか気づくことから始めます。
マインドフルネスのやり方は他にいくらでも記事があるのだろうから、ここでは省きますが、かの釈迦は瞑想によって全てのことを理解したと言われてます。
瞑想することで自分自身のみならず、世界を理解したんですね。
瞑想にもレベルや段階があるとは思うんですが、自分を理解し、世界を理解できれば、わたしの目指す仙人に近づけるかも。
そこで、瞑想も現代仙人への道として必要なものの一つとしたい。

ここで、自分の今の状態に気づく、このことが武術においては大事なことなんですよねぇ。
そして自分だけでなく相手の状態にも気づくことが求められる。
大東流における合気とは、相手と繋がること、と言って良いと思っている。
中国で言うところの気や気功とは違うものと考えている。
(ただ、大東流の稽古の中でも合気とは言わず、単に”気”と言うことはある。わたし自身はそこでの気と、合気は一緒に考えないようにしている。気についての考察はいずれまた。)
合気は相手の意思に関わらず、相手と繋がる技術と言える。
であるので、相手の状態が分からなければ繋がることはできませんね。
独りよがりでは合気は掛からないので力任せの技になってしまう。

また瞑想と武術を同列に考えたときに、”制空拳”と言う言葉がふと頭に浮かんだ。
私の好きな漫画の中で出てきた言葉なのだが、これを思いついたときは少し笑えた。
漫画からでもヒントを得られるものだと。
なるほど自分の周りの者や、物が認識できていれば、手に届く範囲のものを常に自分の意識下に置けられ、いかようにもできる...
作中では手の届く範囲の物を打ち落とすことから来ていたが、打ち落とすことも、合気を掛けることも出来れば、究極かもしれない。

瞑想を考察していて自分の知識に当てはめて行くと、”ゾーン”なんて言葉も出てくる。
瞑想の脳への負荷は無意識での日常よりも低いとのこと。
瞑想状態をいつでも作り出せて行動できれば、理想と考える。

余談ですが、人間の意識は0.4秒遅れてやってくるという。
これは脳科学の話。
自分が動こうと思ってからタイムラグが0.4秒もあると、どんなに集中していても160km/hの剛速球は打つことは理論上できない。
そうなんです。
160km/hの球は無意識で打っているんです。
その0.4秒を穴埋めするように人間は無意識を使って先回りして動いていることになります。
その先回りのためには常に情報の更新が求められるんじゃないかな?
更新された情報から最適解を見つけ出して、無意識の引き出しからそれを出してきて、動いている。
昔よりも160km/hの球を投げる投手も増えたけど、それを打ち返すバッターも増えてることからそんな仮説が思いつく。

瞑想は脳で蓄えられたメモリーの更新する作業をしているのではないだろうか。
最適解を脳をフル回転させて探しながら行動するよりも確実な動作を意識して行う方が、脳の負荷が低いと考える。
極度の集中状態は相手の動作、自分の動作、それぞれを認識し、ゾーンと言う瞑想状態と同様な状態を作りすのではないだろうか。

相手は無意識に動いていても、自分はそれを踏まえた意識の中にいるか、あるいは繰り返しの練習による無意識での最適解が必要なのかもしれない。

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