悟りに至るみち

前回のブログで悟りと書いた。
悟りと云えるほど、大袈裟なものではない。
ただのヒラメキ、あるいは感じ。
しかし、時が経つにつれて確信に。

たぶん、多くの人がそのように感じていると思う。

実在の世界、私たちが見ている世界。
私の肉体、あるいは自然。
これを疑う訳ではない。
肉体の死は確実にある。

私がないと思うのは、
実在の世界から創った概念。
抽象化して、ものの本質なるものを導くこと。
言葉、意味、そういう働きで創り出された概念。

概念には、それが指し示す実体がないということだ。

言葉が単に、単純な記号であるなら、
例えば、「逃げろ」というサインであるなら、
有用性がある、それが限界。

同じ「逃げろ」という言葉でも、
誰がどこで使うかで意味が大きく違う。
リーダーが叫ぶなら、重大事。
子どもが遊びで使うなら、軽い。

どんな言葉も、どこで誰が使うかで大きく意味が違う。
例えば、「赤い」という言葉、
人は皆、その人だけしか分からない感性がある。
クオリアだ。
赤いという言葉は同じだが、人により内包する意味が違う。

どんな言葉・概念も、人により意味が違うのが事実。
ところが、抽象化して、同じだと仮定する。
そうしないと、他人に伝えられないからだ。
情報の伝達や知恵の蓄積ができなくなる。

人生経験を経て、人はこの世に全く同じものはない。と知る。
すべてのもの・事柄には、特性や個性がある。

ところが、数では、
全ての1(イチ)は同じと仮定する。
同じものなど、この世にありえないにもかかわらず。

1は全て同じと仮定しないと、数学は作れない。
便宜的だが、やむ得ない。
しかし、有用で、非常に役立つ。

もっと高度な概念、
例えば、真実とか愛とか正義とか、
これらは、皆、あいまいでとらえどころがない。
言葉の定義も便宜的。

私や自分や自我、
こころや精神や魂。
これらは、特に、曖昧模糊。
中身はないに等しい。

過去や未来という概念。
これらも人がつくった概念。

人が感じるのは、今だけ。
生きているのも今だけ。

過去や未来は、人がつくった仮定。
時間をこのように識別すると色々と便利ではある。
生活するのに役立つ。
約束などが可能となる。

しかし、実際のとこ、未来はどこにもない。
過去がないと同じ。
歴史書はあるが、人が創った物語り。

今生きている人は、必ず死ぬ。
しかし、死ぬとき(未来)は体験できない。
人がいるのは今だけ。

言葉・概念には、それが指し示す実体はない。
架空のイメージ。

すべての経典や聖書も同様。

実に単純な悟りではある。

私の人生は、この悟りに至るみちだったのかも、
しれないと思う。

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