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1-03 「今日の、または一昨日の、既に忘れ去れた日々の断章」

7人の読書好きによる、連想ゲームふう作文企画「杣道(そまみち)」。 週替わりのリレー形式で文章を執筆します。

前回はRen Hommaの 「ブライアン・イーノにまつわる三つの話」でした。
今回はS.Sugiuraの「今日の、または一昨日の、既に忘れ去れた日々の断章」です。それではお楽しみください!

【杣道に関して】
https://note.com/somamichi_center/n/nade6c4e8b18e
【前回までの杣道】
1-02 「ブライアン・イーノにまつわる三つの話」/Ren Homma
https://note.com/nulaff/n/n7809507fdabf?magazine_key=me545d5dc684e
1-01 「ポッポについての野暮な話」/藤本一郎
https://note.com/b_a_c_o_n/n/nb26b925ee656?magazine_key=me545d5dc684e
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「もし、」君は言う。「窓から真珠を落としたら割れるかしら」
僕たちは3階にいて、道に打ち付けられる訳だから傷はつくだろうけど割れはしないだろうし、たぶん、そのまま跳ねて運河に落っこちるだろう。
「いいや、」僕は言った。「そもそも、なぜそういうことをする必要があるのかい」
だが、それは愚問のように思えた。

8月。蒸し暑い部屋から臨む運河は舟と太陽の動きによって鋭くも眠く煌めいた午後。光は僕の眼の中を自由に駆け回り、やがて壁に貼ってあるティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」のポスターの中へと帆を進める。真珠のような清らかな肌。ヴィーナスの耳元には真珠のイヤリング。そういえば「真珠の耳飾りの少女」のあの真珠は輪郭が描かれておらず、透明に近い物だそうだ。幽霊のような真珠。視線を右へとずらすと衣装棚の中を探している侍女とそれを急かしている侍女がいる。いや、赤い衣装の侍女は横目で運河の煌めきを見ているのかもしれない。ヴィーナスと侍女の眼を結んでみる。そしてその線と対称の線を結ぶ。交差する点はヴィーナスの背景のカーテンと窓の境目付近で交わる。その点を見ていると、その絵画の空間はいわばヴェールのような、幕のようなものと気づく。ところで赤い衣装の侍女は「幕」の中の窓の外を見ているのか、それとも窓の先の、「幕」の先の外を見ているのか。僕は「窓」から窓に眼差しを移す。カーテンの先の朧げな木々の緑。カーテン越しの、窓からの風景は平面だった。デュシャンの窓からの風景は官能的だが悲劇だった。グリーナウェイの窓からの風景は悲劇的だが耽美であった。では侍女が見ていた窓の先の風景はどのようなだったのだろう。そのようなことを考えていると窓から風が入り、父が残したサティの楽譜を空間に舞い上げた。
「もし、」君は言う。「風がピアノを弾いたらどんな音だろう」
散らばった楽譜を拾っていると急に足に痛みが走った。足の裏を見るとガラスの破片が刺さり血がにじみ出てきている。一昨日割ってしまった、唐草模様のアンティークのワイングラスの破片だった。
「これ、」君は言う。「蚤の市で安かったの。19世紀末のサン・ルイ。多分売主は何も知らないで売っていたに違いないわ」
そう得意げに見せた物は二脚の唐草模様が施されたワイングラスだった。中に息を吹きかけると、白く朧げな模様が浮き上がりすぐに消える。ワインを注ぐと模様はうっすらと明るい緑や紅に染まり、ワインの液面が反射して出来る微睡んだ光が天井や机をそれら色で染める。前の持ち主も同じような光に魅了されたのだろうか。

私がグラスを弄んでいると光が客人の明るい緑や紅、また白銀の光の間を縫っていきながら様々なところへと帆を進めていった。寂しい夏の夕暮れ。外の緑は枯れつつあり、庭にはオミナエシが咲き始めている。部屋の空気はまだ暑いものの、窓からの風がは既に物悲しさを語っている。多くの客人は「秋はジュネーヴへ」「今度サボイで」「冬はどちらに?」と暢気に明日の話をしていて、今日一日が死へ近づいているのだと気がついていない。

こなたには、林檎樹の小枝縫うて清冽なる流水さざめき、
神域は隈なく薔薇の樹のほのぐらき蔭なし、
さざめきゆれる木の葉つたって、
熟睡は滴り落つ

この唐草模様を見ながらエーゲ海を思い浮かべる。かの詩人は叶わぬ恋に悩み岬の上に立った時、水面の光の煌めきに永遠を願ったのだろうか。

波は岸辺に砕け散った。

ふと手元のナイフを眺める。これを喉元に刺せば、私は生きており、そして生きていて、また生きていたんだと感じられるだろうか。たぶん、生と死はそれくらい近くにあっていわば透明なベールのような仕切られていているだけでそれを裂けば

「あっ」
声の方を見ればグラスが倒れて割れ、赤ワインがクロスを染めていた。誰か布巾を早く持ってきて頂戴。
「もし、」僕は言った。「よろしければ弁償させていただけませんか」
そう話すと、彼はこちらが答える間も与えず電話を借りたいと言い始めた。割れたグラスはもう廃盤。どこにも売っていないし販売が終わるときに何脚かまとめて買ったけど割れたら最後。それこそ蚤の市で買うしかないわ。
「そんなのどうでも良いわ、」私は言った。「何だっていつかは消えて無くなるのだから」
恐ろしいことを言うな、と僕は思った。多分彼女は戦争が近くなって気がおかしくなっているんだ。
私は彼の軽蔑した眼差しを感じた。僕は彼女の物悲しい眼差しを感じた。その間0.5秒。その後はそれぞれ視線をずらし、僕は女中に案内されながら百貨店に電話をしに行った。

〈…ここに眠る 1892-1940〉

バンドエイドを探していると誰かの墓と子供の頃の自分が写ったポラロイドの写真に触れた。いつ撮られた物だろう。フラッシュが明るすぎたのか色があせてきたのか、写真は白く抜けていて詳細が見えない。写真の下には文字が書かれている。
「J.E.S.H.U.I.E.C」
その光沢のある表面はまるで窓ガラスのようで自分の顔が反射している。顔。その隣に写る、物憂げな幼い自分の顔。寂しげな顔は既に喪に服したような、または来るべき今に備えた顔だ。僕はもう、この世にいないのだろうか。
「もし、」君は言う。「私たちが幻だったらどうする」

ペールとベール
べールとヴェール

既に窓の外は群青色の闇に包まれていた。窓からの風は机の上のサティの楽譜を再び空間に舞い上がらせた。吊るしてあるランプは揺れて消え、窓の外の群青色が部屋を染めた。グラスは倒れて割れた。写真は既に色褪せ、何も見えなくなった。遠くに大粒の真珠のような灯台の光。その光はヴィーナスの白い肌を浮かび上がらせ、また闇へと戻した。今日は「今日」なのかなのか、それとも一昨日なのか。もう既に時を失った部屋。誰かの声が聞こえる。

「もし、」


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次週は11/22(日)に更新予定です。担当者は屋上屋稔さん。お楽しみに!

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