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ファンファーレ

 おれがシルク・ドゥ・パピヨンでトランペットを吹いている理由は、じつに単純である。
 小さな店で演っていたら「あなた、もっとデカい音出るでしょ」と声をかけられた。いい口説き文句だなあと思っているうちに、気づいたら雇われていた。

  サーカステントの隙間から差し出された手をいたずらに掴んだら、引きずりこまれたも同然だ。それに負い目を感じる。有名なサーカス団の楽隊に入れて、ラッキーだと思っていられたのは束の間だ。

 どいつもこいつも目の色がおかしい。美しく喩えれば玉虫色、そうでなければ汚水に張る脂の膜と同じ色をしている。このサーカスの舞台に立てるなら、この幻想をたくらめるなら、なんだってできる証の色だ。
 血まみれの膝をライバルの顔面に叩き込み、削げた爪を突き立てて岩肌にしがみつき、陶酔を伴いながら泥濘を啜り尽くせる。そうでなければ歓迎されない。
 やばいところにきてしまった。おれは浄水しか飲みたくない。

 おれを招き入れたリサも、一見しゃくしゃくとしたおねえさんの風情だが、奥底の激しさが時として顔をだす。
 あの日だって、演奏中のおれを睨んでいると思った。

 知人に誘われて(結局、おれはそういうやつだ)加入したジャズバンドで『マイ・ファニー・バレンタイン』を吹かされていた。気取り散らかしたボーカルに「チェット・ベイカーばりに煽情的なやつを頼むよ」とか言われて、反抗期の少年が親に口答えするみたいな音しか出せなかった。あいつみたいに歌うのはアンタの役目では?

  客席は大方埋まっていたが、真剣に聴き入る者は少ない。だからこそ、リサの視線は鋭く感じた。
 トランペットを吹くとき、おれはよそ見ができない。視界を譜面でふさぐのは例外だが、そうでなければ音が飛んでいく方向を見つめることしかできない。それを見破られたのか実力不足か、まあ両方って気もするが、オーケストラの入団審査には3度落ちた。ぜんぶ別の団体だ。指揮棒を目で追う努力は、採用されてからすればいいとタカをくくっていたのだが。

 そんなおれの視線を、リサは掠め取った。ただならぬ気迫が下手前方から向けられている。こんなにも強い目で演奏を観られたことがあっただろうか。

 瞬間的にリサを見た。ストレートのブロンドをきっちりと結い上げ、露出した額も、きりりとした眉も、なにより瞳も、意志の強い女のそれだった。
終演後、彼女がつかつかと歩いてきたときはビンタされるんじゃないかと身構えたよ。

 しかし、眼前に突き出された手は、濃紺の地に金の箔押しがほどこされた名刺をつまんでいた。
「あなた、もっとデカい音出るでしょ」
 ありったけの確信をのせた、リサのくちびるが弧を描く。
 小さな店の粗末なスポットライトが、玉虫色の瞳に光を投げかけた。
 


「率直に申し上げると、おとといの晩にペッターがばっくれたの。巡業の最中で、あと2週間はこの街で公演が続くから、急を要してるの」
 デタラメ・リトル・ヨーロッパ記念公園に設営された、サーカスの野営場。掘っ立て小屋の、会議室と称された机と椅子しかない部屋でリサと向かい合う。

 首から社員証を提げたオフィスカジュアルの彼女を見ていると、事務のバイトの面接にでも来たような気分だった。サーカスは観たことがないので、裏方の質素さに幻滅とかはしないが、なんかまあこんなもんだよなあ。

「穴埋めで席につくのは得意です」
「悪いね、ニコラス。理不尽で悪いんだけど」
 リサが眉をゆがめて笑う。ディズニーアニメのキャラクターみたいだ。「グラスホッパー氏にはそういこと言わないでね。君はつまみ出されるし、私は人探しを続けなきゃならない」
「わかった。できる限りシリアスな態度でいるよ」

 手を差し出されたので、契約成立の握手かと思ったら、豪快なタッチをかまされた。パァンって鳴った。
「急場しのぎなら、短期のサポートメンバーとしてバイトを雇ってもいい。でも、とっかえひっかえしてると、うちのお姫様のコンディションに影響するのよ。それはもう大問題。昨日なんか終演後に落ち込んでたもん。わたしの目が粗末なのかな、いつもの美しい空中散歩にしか見えなかった。まあ、プロのなせる業か」

 相槌のような気の抜けた呼吸のような「へえ」が口から出る。雇ってもらう立場でこんなこと思う自分の性格の悪さに呆れるが、ペッターいなくてもできるんなら、おれはいらないんじゃないの。

「観客にとってはただのバックグラウンドミュージックかもしれない。でも、曲芸師にとっては、芸の間合いや呼吸の取り方だとかの指標にしてる人もいる。こちらが彼らの指揮をとるときも、彼らがこちらの指揮をとることもある。パフォーマーの内面の機微って、侮るものじゃないわ」
 リサの両目がおれを射る。ふいに玉虫色の光を見る。

「昨日の『マイ・ファニー・バレンタイン』、すごくふてくされてたでしょ。ブレスの切り方がずっと最悪だった。恋人への嫌味を垂れながらため息を吐いてるみたいで、それはそれでひとつの解釈に聴こえなくもなかったけどね。楽譜にしたら、えんえんとタイとスラーがかかってるような歯切れの悪さ。あれは色っぽい気だるさというか、風邪っぴきの倦怠感ね。鼻がつまってぼんやりしてる」
 両手を挙げて降参のポーズをとる。ソムリエがワインを酷評するかのようなボキャブラリーで述べられ、何も言い返せない。だって、ぜんぶその通りだ。

「それってつまり」リサが前のめりになり、挙げたままのおれの両手を掴んでデスクのうえにおろす。おれが板面を勢いよく叩いたみたいになった。
「あなた、アホほどロングブレスが得意ってことでしょ。終始のっぺり一定に聴こえるってのは、それだけブレずに吹きつづけられる証拠でもある。裏を返せば、あんなにだるそうに吹いて、あれだけの演奏をできるポテンシャルの持ち主じゃんかよ」

 もしかしなくても褒められてる? 涙袋に落ちたマスカラの小さな塊が視認できるほど、リサのギラつた目が近くでおれをとらえている。
「あなたのロングブレスが、抑制の効かないバカでかい音が、サーカステントをぶち抜くのを見たい」
 この人、ホーン奏者をときめかせるのがうまいな。
 
 
 はじめてお姫様を見たのは、彼女が落下する最中だった。
 もちろん曲芸師を受け止めるためのネットのうえに着地したが、テントに足を踏み入れた瞬間に目に入ったのがそれだったので、相応に驚いた。

 レースやフリルにまみれた衣装を纏った少女が、両腕を広げて背面から落ちてゆく。その様が妙にゆっくりとした映像になり、脳にはりついた。
 降下の圧に乱れるドレスの裾、スポットライトの中で照り返すスパンコールやビーズ、流線をえがくツインテール、弛緩してわずかに内側へたたまれた手指の先でさえ、鮮明だった。自らが勝手につくりだした幻惑じゃないかと疑うぐらいに。

「びっくりした? あれ、毎日やってるんだよ。落ちる練習」
 と、事も無げにリサは言い、バンドメンバーにおれを紹介した。
 アコーディオン、パーカッション、トロンボーン、サックスのテナーとアルト、ヴァイオリン、そしてトランペット。名づけようのない編成だ。各パートひとりしかいない。ジャズコンボには近からず遠からず、シンプルにいえばセプテットである。

「あくまでもメインは曲芸師のみなさんだからね。うちらはこれぐらいミニマムでいいのよ」
 それもそうだ。オペラをやるでもあるまいし。
「ただ、本当に7人しかいないのかと観客に疑わせるほど、厚みのある演奏が持ち味ではあるけどね」

 彼女は例の自信にみちた笑みをたたえる。いくぶん緊張を感じる。
 とってつけたようなオーケストラピット(と、呼んでいいのかもあやしい)におれたちはみちっと集められ、座面が擦れているうえにガタつくパイプ椅子に腰をおろす。両脇のトロンボーン奏者とサックス奏者と握手を交わし、これまた安定しない譜面台を組み立てた。

 小一時間ひとりの練習時間を与えられたが、本番前のリハはこれから行われるいちどきり。もう出来上がってるバンドにとつぜん放り込まれるこの疎外感、居心地のわるい夢を見ているようだ。

 テナーサックスのAが、伸びやかに響き渡った。みんなの前に立つリサのヴァイオリンがそれに続き、おれたちも加わる。収束して間もなく、弓を指揮棒にして合奏がはじまる。
 全員の音がデカかった。それでいて互いをかき消すことなく、奇妙に調和して突き抜けていく。端正な演奏ではない。稚拙でもない。小細工を感じさせない。毛羽立ちがありながら、つい撫でたくなる手触りの音づくり。なるほど、サーカスにしっくりくる。

 おれたちがやっている間にも、入れ替わり立ち替わり、曲芸師やスタッフがやってきて本番前の調整を行っている。だんだんと現場の実感が湧いてくる。
 みんなをリードしているのはリサだ。彼女の手によれば、ヴァイオリンで成しえることならなんだってできるんじゃないか。メロディをホーンセクションと並走し、アコーディオンと掛け合い、荒い音も優美な音も意図的に使いこなし、ときにはフィドル奏法で装飾音も織り交ぜる。とにかく快活で、見ていて気分がいい。

 通しのリハを終えると、おれたちは目を合わせた。自信に満ちた笑みが、おれにも伝播する。
 が、本番を迎えてみればどうだ。

 アリーナをぐるりと囲む観客たちの、期待と好奇に満ちたざわめき。どこからともなく漂う甘いポップコーンの香り。絞られたスポットライトは、粗末なオーケストラピットに影を落とす。
 むせ返りそうだ。お客が入る前とあきらかに空気の密度が違う。こんなにも大人数の観衆に晒されたことはなかった。ついでに、晒されているのに誰もおれのことを気にしていないというのもはじめてだった。こんなところに引っ張り出されてまで、誰が着いていてもかまわない席に座っている。

 自分はリサにうまく丸め込まれただけなんじゃないか? 名無しのトランペット吹きの自尊心をくすぐり、ぶっちゃけ指示通りの音を出せれば誰だってかまわないから、ちょろいおれの手を取ったのだ。

 どうして突然こんなに卑屈になる? 嬉しかったくせに。あんなに真剣な目で、おれの演奏をほめてくれた人はほかにいない。そもそも、このサーカスの主役はおれではない。誰も見てないからなんだっていうんだ。
 口の中が妙に乾いてきて、手のひらは汗でぬめる。マウスピースはひんやりと冷たく、楽器を温めるために長い息を送れば、音符のつかない音がベルから抜けた。

 開演時刻ちょうど、テントが暗転する。観客のざわめきが瞬間的に大きくなり、一拍後、スポットライトがひとりの男だけをつらぬく。
 静寂の中、朗々とした口上が響き渡り、全員の注目が彼に集まる。小さな男だ。いったい幾つなのか、不死身説もあるらしいが、若くは見えない。目鼻立ちもとくべつ麗しいわけではない。

 緑を基調にした燕尾の衣装をひらめかせ、福音にも呪詛にも聞こえる誘い文句で唆されたら最後、観客はなす術を失う。誰もが呆けた顔をして、舞台を跳ね回る男の軌道から目を話すことができない。

最後の一節を唱え、両手で指を鳴らす。足元から濃紺色の煙が巻き上がり、金色の紙吹雪とともに霧散したあとには、彼の姿もきれいさっぱり消えていた。

 おれ以外の楽隊のメンバーが、息を吸い込む。ささやかで短く、鋭く、横一列にそろった呼吸。それが合図だった。理解していたのに、さいしょの音を外して出遅れた。
 慌てて入り、数小節はぎこちなかった。歩調をそろえるのにそう苦労はしなかったが、強烈な自己嫌悪と羞恥心に駆られたまま公演が続く。

 おれなんかが少し誤った程度で、このサーカスが崩落するはずがない。フツーに考えて出勤初日にハイやってみよっか、で放り出されてミスをするなというのが無理な話なんじゃないか。

 と、いう思考になることすら苛立ちを感じる。ほんの数秒間だろうが、綻びを与えたのはおれだ。異様なまでに自罰的な感情がせり上がってくる。

 幕間に呆然としながら管の唾液を抜いていると、汗だくのリサが近づいてきた。白いフリルブラウスに黒いキャミソールが透けて張り付いているが、セクシーというよりマッチョな風情を感じる。胸元を掴んで左右にバリバリとボタンを解放したのでびびった。スナップボタンだった。

「ごめん、しょっぱなで」指摘されるより先に降参したかった。いつだってそうだ。
 がぶがぶと水を飲み、口元を拭うリサは、やはりたくましさがある。
「あー、あれね。割礼みたいなものなの。気にしなくていい」
「割礼?」
「初見でつれてこられた演奏家は、だいたいグラスホッパー氏の存在感に圧倒されちゃってそうなるのよ。むしろ、そうなるようなやつじゃないとダメ。あの人がほしいのは、この世界に取り込まれる器を持った人間だから」
 あっけらかんとした調子で、とんでもないことを言い放つ。極めつけはコレだ。

「あなたには、ペッターとしてのヤバめの余白がある。伸びしろっていうのとは、ちょっと違うかな。膨大ななにかを押しこむための、あらかじめ用意されたまっさらな土地がある」
「……なんていうか、そういうことは早めに言ってほしかったかな」
 悪意のない豪快な笑い声が、観客のざわめきにかき消される。
「こんなこと言われたら引くでしょ。ヤバい組織だと思われちゃう」
「実際ヤバい組織じゃんかよ」

 公演は粛々と続いた。リサの弓はときに指揮棒で、ときに曲芸師に寄り添うコンマスだった。髪の毛を振り乱して弾くほど、伴って弓もぼさぼさに乱れていく。ときおり逆光でシルエットしか見えなくなる彼女の身体は、ヴァイオリンに乗っ取られ、その音色を轟かすためだけのかたちに歪んだ。

 お姫様の出番は大トリだった。とりわけ大仰な口上が耳をつんざき、グラスホッパー氏の指先とともに持ち上がるライトの光線につられて誰もが彼女を見あげる。さながら、一等星をとらえようとして。
 リサがヴァイオリンの表板をノックしてカウントを取り、メランコリックで緩慢としたワルツがはじまる。お姫様の小さな足裏がそろりそろりと踏み出されるたび、綱はいかにも危なげにたわんだ。

 こんなにも小刻みなものを聴いたことがないほどのビブラートと、主旋律よりもあえて遅れてついてくるスネアのリズムが観客の不安を煽る。そこにえげつないベローシェイクを重ねてくるアコーディオニストのおっちゃんがこれを作曲したらしいが、たちの悪い天才っていうのはこういうところにいるもんだ。

 弦を撫で上げる、悲鳴にも似た甲高い音にお姫様の身体が傾く。
 そこに生じる、一拍にも満たない隙間で息を吸う。アコーディオンの音色を切り替えるボタンが、かちりと鳴る。

 転調。この日いちの肺活量を、トランペットに吹き込む。
 レースのパラソルを持つ白い腕が振り上げられた勢いのまま、お姫様の身体はしなやかに体勢を立てなおす。重力に逆らったようにしか見えない。軽やかなステップを刻むシューズの編み上げリボンがひらめき、ターンするたびにオーガンジーのドレスが甘やかに弧を描く。

 実感があった。おれが発するトランペットのメロディと、彼女の足取りが綿密に絡みついている。
 それを理解したとたん、考えるより先におれの指は愚かしくもアドリブの旋律を叩き込みはじめた。弁明の余地などない。お姫様だけを見守っていたリサの目が、とんでもないギラつきでおれを射る。

 コードさえ外さなければ、綱を踏み外しさえしなければ。こっちのもんだろ、なあお姫様?

 指が音を選ぶのに任せる、トランペットのワルツにお姫様の脚は跳躍し、完全に両脚が宙に浮く瞬間すら見せる。どこから取り出したのか指先から金色の紙吹雪をまき散らし、くるくるとスピンした。
 割れんばかりの拍手。歓声。口笛。すべてをその身に浴びながら、お姫様は充足した笑みを湛えて恭しい礼を観衆に向ける。

 玉虫の光すらも食い潰す、血液の色をした瞳がおれを見た。
 お姫様の美しい顔から笑みが消え去る。とにかく力強い視線だった。湧き立つ血の色が、おれをとらえて離さない。
 にやりと唇が弧を描く。いたずらを思いついた、ただの子供の顔で。
 そしてまっすぐ、おれだけにキスを投げてよこした。
 

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