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【試読】Misty

「娘ができたら、つけたい名前があったんだよ」
 実父とサシで会うのは、いつでもこのダイナーだった。
 ひと月後にこの店は潰れ、洒落たサラダの専門店ができるらしい。カロリーかアルコールを客の口に押し込むしか芸のない、この店のことがそれなりに好きだったのに。まあ、チェーン店だからどこにでもあるんだけど。

「参考までに聞いといてやろうか」
 アホみたいにホイップクリームとストリベリーソースが乗った、肌荒れ製造に特化したパイを崩しながら言う。店のBGMは、相も変わらずビートルズとかザ・フーとか。いちどだってジャズを聴いた覚えなんかないよ、潰れる前にエリック・ドルフィーの『OUT THERE』でも持ち込んでリクエストしてみようか。そんなサービスあんのか?

「ミスティ」
 ライムを突っ込んだ瓶ビールを煽る目の前の男は、もう70歳に届こうというのに、衰えを一切纏わない。そりゃまあシワ増えたなとかは思うが、どっしりとした存在感は初対面のときから変わらなかった。恰幅がよく、ヘンな色のスーツとヘンな柄のシャツを着て(襟元はだいぶゆるい)、さきっちょの尖った革靴を履き、どこだろうとずかずか歩く。

「ミスティ?」
「そう、ミスティ」
 アメリカンコーヒーでクリームを流し込む。あたしの知る限り、この店のアメリカンはどこよりも不味い。不味いけどなぜか安らぐ。

 ミスティ、と言われて思いついた曲を軽く口ずさめば、実父は「よく分かってるな」と口角を持ち上げた。あたしも異母兄も、こいつと笑い方が似ているらしい。地味にイヤだ。兄も「心外だよ」と苦笑していたが、やはり似ていた。
「その名前になんなくてよかった。あたしっぽくないし」
 ホイップクリームの奥から、柔らかくなったバニラアイスが出土する。
「なんていうか、スパイのコードネームか、そうじゃなきゃコールガールの偽名みたいだよ」

 豪快な笑い声が響く。ベテランのウェイターとあたしはちらりと目だけ合わせる。
「この曲が嫌いか?」
「いや、いい曲だと思う。でもこの名前になったら、恋に苦労しそう」
「まさか! 俺の遺伝子を引き継いだ人間に限って、そんなことがあるか」
「てめえの色恋沙汰で迷惑被った女何人いるんだよ……指折り数えるなクソジジイ」

 こいつたぶんあと200年ぐらいは生きる。その余力を感じさせる笑い声、元から生えているかのような金歯、中指に彫られた兄の名前、薬指に彫られたあたしの名前。こいつがあたしの母と今でも愛し合っていたとしたら、薬指にはあたしだけどあたしじゃない名前が乗っかっていたのだろう。
 でもなんでミスティなんだよ。
 理由を訊いても納得できる答えなんか返ってきやしない。納得できたためしがない。
 だから今、あたしの名前はミスティじゃないんだよ。


「芸名をね、全員映画のヒロインにしたいの。みんな好きな女の子の名前を名乗って。私はスカーレット。『風と共に去りぬ』よ」
 フィッツジェラルド・カンパニーの会議室で、誰よりも蛍光灯とホワイトボードが似合わない女が言い放った。この女に似合う場所なんかあるのか? あたしのバンドのボーカリストは、どうにも現実離れした佇まいをしている。

 迷った。『パルプ・フィクション』のミアが好きだ。でも名乗る度胸あるかっていうと無い。じゃあ誰ならいいんだっていうと、それもわからない。好きな映画のタイトルを脳内で羅列するところからはじめようとした。

「ウェンズデーにしようかな」
「じゃあ、私はサブリナ」
 そんな簡単に、自分の名前つけられる?
 全員があたしの回答を待つ。えー、とかあー、とか意味のない声を発し、絞り出したのは「3日待ってもらえます?」だった。

「ゆっくり考えてちょうだい」と微笑むスカーレットの顏が、初々しい年少者に向けるそれだ。
 まさか即興力を試されたりしてないよね? セッションだったらボロクソに負けてるよ。3日も待てねえよ。


「ミスティ? 心当たりはないな」
 12歳離れた異母兄は、すっぱりと断言した。
 エスト・サントルの雑然とした繁華街をふたりで歩くと、どうしても目立つ。サックスがやりたくてハイスクールのブラスバンドに入ったのに、身長が高いせいでコントラバスをあてがわれたあたしと、おなじ遺伝子を持つ兄はさらにデカい。
 あたしは母のおさがりのヴィヴィアンを着てるし髪の毛はミントグリーンに染めてるし、兄はなんの柄なのかよくわからないチンピラ開襟シャツにサングラスとかいういでたちだ。
 
 兄はやたらとセクシーなテノールで、例の曲を白昼堂々口ずさむ。
「あたしはこの曲、テンポ上げた方が好きだな」
 言いながら手拍子を打てば、兄は両手でフィンガースナップをしながら歌う。コーラスに加わり、通行人の視線をにわかに感じつつ、快晴の昼下がりに歌うのは気分がいい。街路のチェリーブロッサムは満開になりつつある。

 兄とはじめて会ったのはハイスクールに入学した直後で、卒業した直後にもこうしてふたりでぶらつくぐらいには仲がいい。兄はあたしに構いたがるし、あたしは兄になついていた。
「キースは? あいつに名前についてなんか言われたことないの」
「ない。ジャズに興味のない母親に、たまたまジャズピアニストの名前をつけられて、サックス奏者になったけど」

 やっぱり、口の端だけ持ちあげるニヒルな笑い方が実父に似ている。
「ミスティなんて、マジシャンかコールガールみたいな名前だな」
「あたしもあいつに言った。爆笑してた」
「まさか贔屓にしてたコールガールの芸名じゃないだろうな」
「うわ、そんな気がしなくなくないわ、は? クズじゃん、キモ! キモいんですけど! 鳥肌立ってきた」
「ごめんって、今のは俺が悪かったよ、落ち着け」

 騒ぎながら映画館に来た。
 兄からキューブリックの2本立て上映に誘われたから来たんだけど、ヘンな組み合わせだ。『恐怖と欲望』ならびに『ロリータ』。なにがどうなれば戦争映画とナボコフを抱き合わせようということになるんだ。共通点と言えばモノクロだってことぐらいだ。

「巡りめぐってこの国に、キューブリックのフィルム缶が漂着してるってだけでもなかなか奇跡だと思うが」
 ふたつのポスターを前にして兄が言う。
「傘とミシンの出会いが美しいっていう芸術家もいるんだから、まあこの2本立ても妙味があるんじゃないか」
「傘とミシン?」
「知らない? シュルレアリスムの写真家が……」

 あたしの趣味は兄の影響がデカい。兄は実父に影響されたという。野郎どものおさがりの、行き着く先があたしだ。外国の映画のフィルムが、この国に入ってくるみたいに。
 傘とミシンがナントカって言った写真家の作品集が、実父の家にあるらしい。なんとなくあの家にはあまり行ってない。あいつの生活のグロテスクな痕跡を見たくない気持ちが強い。色恋沙汰とか、色恋沙汰とか、色恋沙汰とか。

『恐怖と欲望』ははじめての観賞で『ロリータ』はディスクで観たことがあった。どちらも悪辣だった。週末だというのに半分も席が埋まらないぐらいの客入りで、後ろの方で席を蹴ったとか蹴ってないとかで小競り合いしてるのが聞こえた。不愉快だったけど、この作品の観賞環境として似合うなあ、と思ってしまい、たぶん口の端が持ちあがった。

 それで、ロリータを名乗ることにした。
 あたしはコーラの瓶にわざわざストローさして飲んだりしないし、しっちゃかめっちゃかに男を振り回すのはだるいのでやりたくない。しっちゃかめっちゃかの末、23歳の母と50歳の実父のあいだにデキたのがあたしだ。

 ハンバート・ハンバートの彼女への執着は、こわいものがあるが、若い娘に入れ込む中年男にさえ同情の念が湧いてくるようなオチを用意しているロリータのことがまったく理解できない。あたしは理解できるヒロインに興味がない。めちゃくちゃな女が好きだ。



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