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世界に色がつくとき #18

 バスを降りて少し歩き、水族館の入り口に着く。やはりそれなりに賑わっていた。二人で列に並んで顔を見合わせる。恵介くんはなんだか不安そうな顔をしていた。

「どうしたの?」
「うーん……」

 曖昧に唸りながら、列に沿って前へと進む。

「実はね、僕……、水族館が怖いんだ」
「へっ?」

 あまりにも予想外の言葉に、私は素っ頓狂な声をあげてしまった。

「あれ、で、でも、水族館に行こうって言ったの、恵介くん、だよね……」
「そうだよ」
「もしかして、その……、定番のデートスポットだからって無理して……?」
「いやいや、違うよ」

 私がおそるおそる訊ねると、恵介くんはからりと笑って答えた。

「実はね、さっきも言ったけど。中学生の頃に一回だけ、水族館に行った。それまで一回も行ったことなかったから、どんなところなんだろう……、って。そしたら、すごく怖くて」
「そうなんだ……、でも」

 言葉を続けようとしたのに、もう私たちは受付の窓のすぐ前にいた。恵介くんが二人です、と言ってお金を出したので、私は慌てて財布を取り出して入場料を恵介くんに渡す。
 恵介くんはそれと引き換えに入場券を一枚、私へと差しだしてくれた。

「やっと入れるね」

 そう言った恵介くんの笑顔はなんだか眩しくて、とても水族館を怖がっている人だとは思えなかった。
 二人で水族館の中へ足を踏みいれる。
 半ば人々に押しながされるようにして順路を歩いていると、一際大きな水槽が私の目を惹いた。水槽の中には大きなクラゲが何匹か漂っている。

「すごい……」

 思わずそう呟くと、恵介くんが私の右手を取って、その水槽のすぐ前まで歩いていった。なんの予兆もなく手を繋いだ——と、果たして言えるのかわからないけれど——ことに、どぎまぎして心臓が落ちつかない。
 水槽の前でしっかりと立って、恵介くんは私の手を離した。

「ごめんね? もしかして……、人に触られるのが苦手だったりとか……?」
「え? 違うよ、違う違う! ただその、びっくりしちゃって、あと、その……、えっと、ドキドキしちゃって……!」

 恵介くんは私の言葉に、あはは、と楽しそうに笑った。

「そっか、それならよかった。僕も迷ったんだよ? 手を繋ごう、ってちゃんと言ってからのほうがいいのか、言わないほうがスマートなのか、とか……。ただ、彩ちゃんがこの水槽、すごく気になってたみたいだったから、つい、さ」
「ありがとう。びっくりはしたけど、その……、嬉しかった、よ……?」

 私は恵介くんが微笑んで頷いたのを確認してから、水槽へと目をやった。
 クラゲがいち、に、さん、し、ご……。個体差はあるけれど、どれも大きなクラゲだ。おびただしい数の脚が生えていて、もはや絡まっているようにしか見えない。

「大きいね。ねえ、このクラゲ、何色?」
「薄い赤色かなあ……。ヘッドホン、つけて見てみたら?」
「そ、そうだね……」

 私はそう答えてバッグの中に手を入れる。けれどなんだか迷ってしまう。周りには知らない人がたくさんいるだけで、隣にいる恵介くんは私の特異体質——とでも言うのだろうか——のことを、知っている。けれど。

「周りに人がいると、気になる?」

 恵介くんは優しい声でそう言って、ポケットからスマートフォンを取りだして水槽へとかざした。ぱしゃり、と写真を撮る音が聞こえた。

「生で見るのとは少し違うかもしれないけれど……、あとでこの写真、見せるよ」
「あ、ありがとう……」

 私は結局ヘッドホンを取りださないまま、バッグから手を抜いた。

「それにしても、あんなに脚があったら絡まっちゃいそうだよね。っていうか、どう見てももう絡まってるよ」
「そうだね。私もそれ、思ってた」

 楽しげに言う恵介くんに、私もつられて笑顔になる。

「そうだ、この水族館さ、ちょっとしたカフェがあるんだ。人多いかもしれないけど、ちょっと行ってみない?」
「うん、もちろん」

 恵介くんがまた私の手を柔らかく握った。私はその手を柔らかく握りかえして、恵介くんが歩くのにあわせて足を動かす。
 カフェもそれなりに混んではいたけれど、テーブル席が空いているのを見つけてそこへ二人で座る。

「よかった、席が空いてて。なにか食べる?」
「そうだね、ちょっとお腹すいたかも。恵介くんは?」
「そうだなあ、あ、このパスタとか」

 メニューを開いて恵介くんが指さしたのは、ジェノベーゼだった。私はその上のカルボナーラを指さす。

「じゃあ、私はこっちにする」
「オーケー、飲み物はなにがいい?」
「ココアがいいな、アイスで」

 わかった、と言って恵介くんは店員を呼ぶ。そしてカルボナーラとジェノベーゼ、それからアイスコーヒーとココアを頼んだ。店員は復唱確認してから去っていく。

「水族館に誘っておいてこんなこと言うのもなんだけど、さ……」

 恵介くんがどこか遠慮がちにそう言ったので、私は、なあに、と先を促した。

「水槽を見ていると、なんだか怖くなるんだ。ほんとうは広い海にいるはずの生き物が、閉じこめられている……、って」
「ああ……」
「でもね、僕は彩ちゃんの傍にずっといたい、って思って……、だからその、閉じこめられるのとはちょっと違うけれど、なんていうのかな……、同じ水槽の中にずっといるのは、安全でもあるし、とにかく、その……、案外、あのクラゲだって幸せなのかも、なんてさ」

 恵介くんは少し恥ずかしそうにはにかんで、私の目を見据えた。

「というかね、彩ちゃんとなら水族館を楽しめるんじゃないかって、思ったんだ。ほんとうは怖くないかもって」
「そ、そうだったんだ」

 まっすぐに目を見られて、まっすぐな言葉を伝えられて、恥ずかしさと嬉しさがこみあげてくる。

「でも脚が絡まっちゃうのは、僕は困るけど」

 きっと恵介くんも恥ずかしさがあったのだろう、それを打ちけすようにそう言って、からりと笑う。私も、確かにそうだね、と言って笑った。

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