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アフガニスタンと僕

「アフガニスタンと僕」(2019.8.23 Facebook投稿 加筆転載)

菜々子ちゃん(アフガニスタンダンスグループ・シャランシャラン主宰、上村菜々子さん)に倣って僕も夏休み作文するなり。題して、アフガニスタンと僕。ちょっと長くなりますが、よろしかったらおつきあいください。

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最初に断っておくが、僕はアフガニスタンに行ったことがない。インドの横笛バーンスリーでインド古典音楽を演奏しているインド音楽馬鹿である。だから、僕にとってのアフガニスタンとの関わりは即ちちゃるぱーさとの関わり、佐藤圭一氏との関わりに尽きる。日本で唯一のアフガニスタン音楽を専門に演奏するグループちゃるぱーさとは、その結成当時からよく声を掛けてもらって一緒に演奏する機会があった。アフガニスタンは言語をはじめペルシャ文化の影響の色濃い国だが、音楽だけはなぜかインド寄りで、古い歌謡曲なんかもラーガに基づいているものが多い。インド古典音楽だけをずっとやってきた僕にもすんなり馴染めるものが多かった。シンプルなのにいつまでも心に残るメロディー、それがアフガニスタンの歌の第一印象だった。

書きながらいろいろ思い出してきた。アフガニスタンとの関わり、圭一さんとの関わりは、そのもう少し前からだ。あれは2006年5月20日。ちゃるぱーさ結成2年前、圭一さんがその前身のバンド、バハレヌールをやっていた頃の話。四谷石響でのカタック公演が、僕が憶えている限り一番最初の圭一さんとの共演であり、僕にとっての初アフガニスタン音楽だった。ちなみにヴォーカルは慶九ちゃん。タブラは瀬川くん。カタックは佐藤雅子さんだ。日記のセットリストによれば、ジャマナレンジとかアイレイリとかをやってたようだ。

そうそう、憶えてる憶えてる。え、これキルワニじゃん?バイラヴィじゃん?まんまインド古典音楽のラーガの音の動きだったのでびっくりした。

とはいえ、正直にいうとその頃は別に何の特別な感慨もアフガニスタン音楽に対して持っていた訳ではなかった。ただ世界のいろいろな音楽のうちのひとつに過ぎなかった。そんなアフガニスタン音楽が僕にとって特別なものになったのは、ある夜の出来事がきっかけだった。

photo by Hideki Kurita

その日、僕らは土浦でリハをして、夜もだいぶ遅くなって千葉に帰ってきて、さて夕飯をどうしよう?というところだった。

「アフガニスタンにしよう」

誰からともなくそんな声が上がり、僕らは四街道を目指して夜の県道を疾走した。

民家を改装した、知らなければ絶対にわからないようなアフガニスタン料理屋が当時、駅裏の住宅地の一角にあって、僕らがようやくその店にたどり着いたのは夜も更けて11時10分前。店はたしか11時閉店だったと思うけど、どうしよう、とりあえず聞くだけ聞いてみようか。

「いーよいーよ、入って入って」

いけたよ。まさかいけるとは思ってなかったので驚いた。でも火は落ちてるし、料理が出てくるまでには随分時間がかかりそう。

「……弾いてもいいかな」

圭一さんが言い出した。車からラバーブをとってきてポツリポツリと弾き始める。ちさとさんもトンバクをとってきて叩きながら歌い出す。そうなると僕もやらない訳にはいかない。結局真夜中の四街道でリハの続きのようなことをやりだすことになった。

photo by Hideki Kurita

店の人は上機嫌で、もっとやれもっとやれと言い出す。大丈夫かな。住宅街だぞここ。店の奥で寝ていた人たちも起きて集まってくる。まだiPhoneじゃない時代。みんなそれぞれに二つ折れの携帯電話を取り出しては、写真を撮ったり録音したりしている。

やがてそのうちの1人が、演奏している僕の目の前にいきなり携帯を突き出してきた。吹いてるその口元に思いきり突きつけてくる。え、何?と思って店主の方を見ると、彼は今、カーブルにいる弟に電話をしているのだという。カーブルにいる弟にこの演奏を聴かせたいのだと。

その瞬間、目の前の携帯の向こうにまだ見ぬカーブルの景色が広がった。煉瓦造りの部屋の埃っぽい乾いた空気の中で、受話器の前に集まって必死に耳をこらしている弟さんの家族や子供たちの姿が目に浮かんだ。おい、聴こえるか。これ、日本人が演奏してるんだぜ。俺たちの歌を日本で日本人が演奏してるんだ。知ってるだろこの歌。信じられるか?日本人なんだぜこれ!

日本人である僕が日本でアフガニスタンの音楽をやっているということの意味を、その時初めて僕は理解した。世界から見捨てられたような、忘れさられたような境遇にある彼らに、そうではないことを、少なくとも遠く離れたこの極東の地にあなたたちのことを思っている人間がいるのだということを、音楽は伝える。彼らの歌を僕らが歌うことが、メッセージになり、彼らの生きる力になる。彼らを支え、希望と勇気を与える。携帯を向ける彼らの大きな涙ぐんだ目や表情から、大袈裟ではなくそう感じた。深夜のコンサートはいつまでも続き、僕らがようやくご飯にありつけたのは深夜も1時近くになった頃だった。

photo by Hideki Kurita

そうしてアフガニスタン音楽の演奏活動を共にするうち、日本にも大勢のアフガニスタンの人々がいることを知った。何人か知り合いもできた。中にはもう何十年も祖国の地を踏んでいない人もいる。俺の故郷の曲をやってくれ。そんなリクエストをもらうこともある。

日本人である僕らが彼らの歌を歌うこと、それは遠い彼の地にいる人々へのメッセージであり、祖国を離れて久しい人々への故郷からの便りであり、そしてアフガニスタンのことをあまり知らない人々にとっては、扉を開く鍵でもある。

僕らが演奏するアフガニスタンの歌を聴いて、彼の地に想いを馳せる人がひとりでも増えてくれればいい。

自爆テロと内戦だけではない、普通に生きて、恋をして、生活して、子供を育てて、そうして僕らと同じように感じて悩んで喜んで歌って踊って暮らしている、僕らと同じ人間なのだと知ってほしい。歌でも、煌びやかで可愛らしい衣装でも、子供たちの笑顔でも、踊りでもなんでもいい。あの国のことをもっと知りたいと思ってもらえるきっかけになればいい。世界はあなたたちのことを決して忘れてはいない。あなたたちのことを思っている人間が、あなたたちの歌に心を震わせている人間がまだここにいる。

2018年9月 杉並公会堂 photo by Hideki Kurita



2022.9.24 加筆修正。アフガニスタン料理屋さんでの出来事は2009年3月の話で、mixiにその時の日記が残っている。
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1112626391&owner_id=230456

今読んでみると、細かいところで多少記憶との齟齬がある。カーブルで電話を受けていたのは弟ではなく兄だったとか。でも、その時に受けた衝撃と感慨はそのままだ。携帯の向こう側にカーブルの空が広がっている。上手い下手も、正しい間違ってるも関係ない。その音楽をやっているというそれだけのことが持つ意味。力。2021年8月、タリバンが首都カーブルを再び制圧し、音楽家を殺害したり音楽学校を襲撃して楽器を壊してまわったりしていたのも記憶に新しい。音楽家の多くはタリバンの難を逃れて国外に脱出している。アフガニスタンを取り巻く現状が当時よりますます悪くなっているように見える今、世界の各地で彼らの楽器を演奏し、彼らの歌を歌い続けることは、それ自体タリバンの蛮行に対する抗議活動であり、タリバンに抵抗する人々への連帯となりえていると思う。


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