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未来の日本語の姿(妄想)

「やさしい日本語」推進派だけど危惧もあり…

 「やさしい日本語」を世の中に広めようという活動がある。
「やさしい日本語」とは、ごく簡単にひと言で言うと、小学校高学年くらいの日本語である。それだと、外国人に分かりやすいので、積極的に使いましょう、ということだ。よく誤解されるのだが、外国人がカンタンに覚えられる日本語、という意味ではない。漢字で書くと「優しい」兼「易しい」であり、使うのは主に日本人だ。

 私は「やさしい日本語」を推進する活動に賛成の姿勢ではあるのだが、一抹不安もある。「やさしい日本語」の普及により、日本語が急速に簡易化されてしまうという恐怖も感じているからだ。近い将来、小学生高学年の言葉で社会活動をするようになるかもしれないと思うと、違和感があり残念だ。
  推進派の誰からも、私の持つような違和感は聞かれない。そんなまさか、と言われそうではある。

 日本語は変化が早い。
 シェークスピアの英語は、現代人もほぼ読めるが、西鶴の日本語となると、辞書なしで読める人は、なかなかの学者ということになるだろう。
 昭和30年代の映画を、若者にそのまま見せると、よくわからないという話があったが、その話は今から10年前か、20年前かのこと。ということは、その若者たちは今や何歳になったのか、社会の中枢にいる年齢かなと思う。
 ら抜き言葉もさ入れ言葉も、登場した頃に比べるとかなり市民権を得た。
おそらく現・中高生あたりは、それが正しいと思っているだろう。
 また、若者たちのSNSの文体は、まるで私の勤務校で学ぶ初中級あたりのある国からの留学生のようだ。助詞が抜けたり間違ったり、体言止めであったりする。おそらくその若者たちは、書こうと思えば正しく書けると主張するだろう。そういう人が多数派であることを望むが、徐々に減りつつはないか? やがてこの文体も社会的市民権を得るのかもしれない。
 また以前からよく聞く誤解がある。「日本語は難しい」ということだ。外国人からの発言ではなく、日本人がそう言っている。へたをすると、日本語を学ぶ外国人に対して「日本語は難しいでしょう」とか、やっと挨拶ができる程度の外国人に「日本語が上手ですね」と言ったりする。
 このような日本人に対して「やさしい日本語」を推奨したら、あっという間に……。
 
 話はちょっとずれるが、日本語の変化は止められないとは思う。それは仕方がない。
 今後、外国からの移民が増える。働き手が必要だし、少子化だし、かつて言われた3Kの仕事に、日本人は今さら就きたくないだろうし。
 そうなると外来語も増える。今は英語から取ったものが大多数だが、今後はその他の国の言葉から来たものが増えるかもしれない。
 近い将来、まず新聞が、そして書籍が、横書きになる。外来語をカタカナに直して使うのではなく、原語そのものを使おうという意識が高まると、縦書きは不便だからだ。そしてやがて国語の教科書が横書きになる。
 その後、日本語全体が、ごちゃごちゃとさまざまな言語が入り混じったものに変化する。右から書くアラビア語をどうやって取り入れるか、工夫が加えられる。その昔、返り点をつけて中国語を読んだように。
 カタカナがかなり減り、ついでに漢字も減ると言いたいが、簡体字を導入するか、日本独自の簡体字を開発する。
 以上、ここまでの変化が生じる頃、私はこの世にはいないだろう。だからこれは私の勝手な楽しい妄想である。これを信じたあなた、これは全く根拠のない妄想ですからね~(笑)

 さて、話は元に戻る。私が生きていく、これからの数十年が心配なのだ。
「やさしい日本語」の大普及により、日本人全体が使う日本語がすべて「やさしい日本語」になってしまうのではないか、ということだ。
 「やさしい日本語」は実に実用的だ。初級外国人にもわかる、小学生にもわかる、認知力や聴力の落ちた年配にもわかりやすい、など、社会活動で使う上でとても便利なものだ。
 だが、古典から来た風情はなく、詩的な面もなく、うつくしい日本語からかけ離れていると感じるのは私だけだろうか…。成熟した大人が使用する語彙もかなり姿を消すことになる。
 たとえば、今書いた文「成熟した~」を「やさしい日本語」で書くと、
「大人はむずかしいことばを使います。そのことばはなくなります。」
のような姿になるのだ。これってどうよ? 

 ということで私は「やさしい日本語」の推進派兼危惧派、なのである。

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