【人事労務の失敗学②】自己評価は要る?要らない?
失敗学は、元はと言えば、航空機事故や橋梁事故など工学系の分野で発達してきた学問です。
なぜかな?と考えてみたところ、物理的な事故ですから、事故の定義が明確にできるところが最も大きいと思います。医療事故もそうですね。
ところが、人事労務の分野になると、何が成功で何が失敗だったのか?という定義が途端に難しくなります。
「法律に違反すれば失敗」というふうにしてもいいかもしれませんが、実務的にはそう簡単にもいかないでしょう。
たとえば、36協定に1時間違反したとはいえ、顧客満足や売上げ目標達成という面では成功ということは、普通にあり得ることだからです。
さらに成功・失敗の定義を難しくするケースは、法律上の規制があまりない分野です。
代表的なのが、人事評価制度です。法的な縛りは、せいぜい制度の目的や運用が不当な差別になっていないかどうかですので、表面的にはそこで成功・失敗の線引きはできるでしょう。
では、例えば下記のような命題で成功・失敗は定義できるでしょうか。
「人事評価制度に、社員の自己評価を入れたことは失敗だったのか?」
人事評価制度をつくるときに迷うポイントの一つが、「社員による自己評価は必要か?」という点です。
そういうときは、私は頭の中で以下のような思考を巡らせます。
①評価者と被評価者とのあいだで、評価のギャップを見える化する
↓
②なぜギャップが生じるのか?という話題で面談する
↓
③被評価者(社員)の自己評価の仕方を、評価者(会社・上司)目線の評価に導くほうへ修正する
↓
④社員を会社の望む方向へ行動変容させる
↓
⑤結果として会社・上司の望む方向へと成長し、社員に処遇で報いることができるので、お互いにとって良い効果を生む
上記のような効果が期待されるのか?というイメージです。
一方で、社員つまり評価される側としてはどのように映るでしょうか。
①評価のギャップが見える化される
↓
②評価者(会社・上司)の評価を基準に、自己評価を修正される
↓
③評価者の期待に沿う仕事をするように指導される
↓
④自己評価よりも評価者の期待を考慮して仕事をする
↓
⑤期待に沿って仕事をしたのに、また評価のズレを基に指導される
あえて社員にとってネガティブなケースを想像して書いてみましたが、程度の差こそあれ、多くの社員はこうした捉え方をされることが多いのではないかと思います。
それなら、自己評価は廃止して単に評価者による評価だけを示せばいいのかというと、不安になる点は残ります。
それは、コミュニケーションが一方通行になってしまう点です。
一方的なコミュニケーションの下での評価であっても、制度導入後に何かしら経営(業績)に資するものが見られたのであれば、それは成功と言える余地はあるでしょう。
他方、評価された社員のモチベーションやパフォーマンスが下がれば失敗とされてしまうこともありますが、そもそもモチベーションやパフォーマンスは個別のことでもあるので、必ずもその人事評価制度が全体的に見て失敗であったかと断定することには疑問符が付きます。
このように、目に見えない部分(社員の感情・心理)と見える部分(パフォーマンス)が混在することや、制度は一律に適用されるが適用される社員は多様という矛盾が、冒頭に書いたような工学的な成功・失敗をそのまま持ってこられない問題を引き起こします。
そうした難しい問題はあるものの、何かを行えば(ここでは人事評価制度の導入)それを評価する(成功・失敗)ことは必ず必要です。評価しなければ自社の状況に合わない制度を延々使い続けることになり、ひいてはそれが経営上の問題(離職増加など)に繋がっていくからです。
人事評価制度の成功・失敗の評価が難しいとはいえ、法的な規制があまりないということは、成功・失敗の評価を自由にできるという面もあるといえます。
人事評価制度に限らず、何かの制度を導入したり改変したりする際は、予め、そうした「成功・失敗」の定義も定めておいたうえで運用を始めることで、適切なタイミングで改善・改変も図ることができます。
「使いやすい」ことや「理解できる」ことが制度策定では注目されがちですが、そこに「成功・失敗」の定義もそなえることで、変化の激しい今の時代に即した制度とすることができるでしょう。
そうした定義なしに「失敗から学ぶ」ことはできないのですから。
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