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ポスト・ヒューマン/ディストピアの時代に〈セカイ系〉を読むということ(試論)

2020年代に入って、にわかに「世界の終わり」という言葉が身近なものとなったような気がする。疫病、戦争、気候変動。しかしそんな中でも日常生活は続いていき、だからこそ思いやりとか、人間性をいかに保つかということが、これまで以上に問われている。

テクノロジー領域に目を向ければ、より以前から事態は進行している。GAFAと呼ばれる巨大なプラットフォーム企業によって、収奪される個人情報。広告主にそれを売りつけられる私たちは、無意識のうちに情報商材……つまりモノ化されている。生成AIの急速な進化によりシンギュラリティという言葉も再び脚光を浴び始め、日常の消費行動のひとつひとつにすらディストピア的なイメージがまとわりついている。

主人公と(たいていの場合は)その恋愛相手とのあいだの小さな人間関係を、社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな問題に直結させる想像力

東浩紀『セカイからもっと近くに 現実から切り離された文学の諸問題』

このように説明されることの多い〈セカイ系〉は、「君と僕」の二項関係が「社会」を抜きにして「世界の終わり」のような抽象茫漠としたイメージに直結する(から悪い!)とされる。
しかし「世界の終わり」とはいまや、「直結する」という時間的な推移を介さずとも、常にそこらじゅうを漂っている空気のようなものである。
そして今日の「社会」は、人間をモノ化する仕組みであるプラットフォーム資本主義に全面的に依存している。
であれば、「社会=プラットフォーム資本主義」を否定して、「世界の終わり」についての思惟を展開する〈セカイ系〉は、今こそポジティブに読み直す価値があるのではないだろうか?

ただし、「人新世」とか「絶滅以後」とか、人間を排除した言葉を強調しすぎるのも具合が良いとは言えない。
「思弁的実在論」と呼ばれる現代思想の動向は、気候変動やシンギュラリティといった事態について具体的に考えるために、「人間の存在を抜きにした事態を、人間である私たちは思考することは可能か?」と、そもそもの人間の存在を括弧に入れようとする傾向がある。論者によって細かい違いはあるものの、人間を特権化せず、人間以外の(有機物・無機物を問わない)「モノ」にも視点や主体性を認めよう、という方向性はおおむね共通していると言えるだろう。
〈セカイ系〉は、そんな思想がある種の説得力をもって感じられるくらいに「世界の終わり」が身近な時代においてなお、人間性について考えることを志向する。「君と僕(ヒューマニティ)」と「世界の終わり(ポスト・ヒューマニティ)」を同時に考えることのできる思想だと、改めて定義してみたいのである。

この〈セカイ系〉の思想を端的に示しているのが、カタカナで「セカイ」と表記されること、それ自体だといえる。
「世界」の代わりに、それと同等の大仰な言葉(「社会」「人新世」「絶滅以後」etc…)をあてがうのではなく、「セカイ」とカタカナにして異化すること。そこには、「世界」の全体性を信じることなどもはやできない、そうわかりきっているのだけど、それでも「世界」を諦めないという姿勢が表れている。
「世界」というものについて考えることを諦めない努力を、「君と僕」という――最小限の「社会」ともいえる――関係を考えることから始めよう。そんないじましさを〈セカイ系〉からは感じるのだ。

筆者にとって、このような意味での〈セカイ系〉の原体験は、恋愛アドベンチャーゲームにある。
このメディアをシナリオの水準のみで分析しようと思ったら当然、「恋愛」アドベンチャーであるがゆえに、「君=ヒロイン」と「僕=主人公」の話ということになる。
また、主人公にだけキャラクターボイスが設定されていないことがほどんどだが、これは「あなた(プレイヤー)は主人公に没入して目の前のヒロインと疑似恋愛を楽しんでくださいね」というサインであり、基本的には「プレイヤー=主人公(僕)」という図式になる(東浩紀の「ゲーム的リアリズム」は、そのようにして幽霊めいたポジションについているプレイヤーの「君との関係に介入したくてもできない」システムを、性的消費者としての男性オタクに反省を促すものとして取り出す、という議論だった)。
しかし、「主人公とはあくまで別人である自分」を意識するプレイスタイルも実は可能である。たとえば、筆者がまさにそうなのだが、件のサインを無効化する=主人公とヒロインの立ち位置を平坦にするため、わざわざすべてのボイスをオフにしてプレイする、ということを行っている。こうすることで、主人公を自分自身とは異なる主体だと見なしやすくなるのだ(受け手の都合に合わせて設定を変えることができるのは、デジタルメディアならではの特性=インタラクティブ性であり、これを無視して「プレイヤー=男性主人公」という図式を前提に議論を進めていたこと自体が、むしろ不自然だったと筆者は考える)。

恋愛アドベンチャーにおいて、キャラクターの姿が消えた瞬間に浮かび上がってくる、がらんどうの街や教室の風景は、「絶滅以後」の風景を思わせる。しかし、本当に絶滅しているわけではない。実際には作中世界には人がいるにもかかわらず、(作画コストの関係から)がらんどうのままに表示されているだけだ。

『CROSS†CHANNEL』より、舞台となる学校の背景

『CROSS†CHANNEL』という作品は、この「お約束」を逆手にとって、「主要キャラクター以外は、実際に消え失せた世界」を舞台とする。
過去の殺人のトラウマ――被害者としても、加害者としても――を抱え、作中でも「バケモノ」と形容される本作の主人公は、集団の中で他者との距離感をうまく測ることができない。親密になるほど他者を傷つけてしまい、それは彼の所属する、精神疾患を抱えた少年少女が集う学校においては最悪の連鎖反応を生んで、最終的に主人公は同じ部活(放送部)のメンバー全員を殺害してしまう。
部活メンバー以外の人間が消え失せ、同じ時間を「ループ」し続ける世界に迷い込んだ主人公は、一回のループにつきひとりのメンバーとだけ親密になるという縛りを自らに設けて、順番に元いた世界に、自らの目に宿った能力を用いて「送還」することを選ぶ。
最終的に誰もいない世界に取り残された主人公は、青空に向けてラジオの電波を発信する。それは元の世界に戻った部活メンバーそれぞれの耳に届く。どこか澄み切った表情を浮かべる主人公の姿が映されて、物語は終わる。

「人ではないモノでありながら、人であることを志向する」。そんな本作の主人公の立ち位置は、恋愛アドベンチャーにおける幽霊的な主体=プレイヤーの立ち位置と重なる。本作の「ループ」設定と、主人公のそこからの脱出不可能性という図式は、メタ的に見れば浮気性のように映る、周回プレイを前提とした恋愛アドベンチャーのプレイ体験への批判=批評であると同時に、強い加害衝動を持つ「バケモノ」である主人公に、それでも人間らしい他者――それは私たち読者の持つ人間性でもある――との接点を与える、ギリギリの設定でもあるのだ。

ここでひとつ補助線を引きたい。哲学者のミシェル・セールによる「準-客体」という概念がある。主体と客体という二項対立に対して同名の第三項を持ってくることによって、「主体による対象の認識」という一方向的な図式を乗り越えようとする考え方だ。
セールはラグビーの試合を引き合いに出してこの概念を説明する。そこではプレイヤーが主体的にボールを取り合っているように見えて、実はボールによって各プレイヤーが支配されてもいる。セールによれば、このときのボールが「準-客体」に当たるという。
セールに私淑する清水高志は、人ではなく、モノを起点にする思想としての「思弁的実在論」にも目くばせをしつつ、セールの思想を発展させて「一対多」という理念を唱える。これはお互いがお互いにとって絶対的な関係である二項関係の外側に第三項があると、ぐるぐる視点が入れ替わり続ける構造を考えることができるようになる、というものである。
「二」という数字は、お互いがお互いにとって絶対的な「鏡」の関係に閉じてしまう。それが「三」になると、その中から「二」となる関係を作ったところで、それを相対化する視点(「一」)が常に生じる。「君と僕」に対して、プレイヤーとしての自分を幽霊的な立ち位置として置くのは、この構造に重なるところがあるわけだ。

閑話休題。これを踏まえて『CROSS†CHANNEL』の内容をひと言で表すならば、「群像劇を諦める」話と整理することができる。
人ではない「バケモノ」(一)である主人公は、人によって織りなされる群像劇(多)の主体となることを諦め、「絶滅以後」の世界に残ることを選択する。一方で、部活メンバーひとりひとり(一)と関わることを繰り返す形で、部活メンバー全員との絆を何とか大切にしようとする(その対象には同性の友人も含まれる)。
「一対多」というのは、「多」に対して疎外される「一」の位置を示すものであると同時に、多数の「一対一」を作り出す構造でもあるのだ。

モノだけになった世界で、孤独な「バケモノ」として青空と向き合い続けること。それを選ぶことができるのは強さだが、同時にとても寂しいことであり、その気持ちは主人公も隠すことはない(そんな気持ちを抱けるということ自体、彼が完全に「バケモノ」ではないことの証でもある)。だから彼はどうか誰かに届いてほしいと、電波を虚空に向けて発信する。
主人公(モノ)と部活メンバー(人)は、同じ時間と空間を共有することは二度とない。しかし記憶の中で絆を保ち続けるのだ。ここにはヒューマニティとポスト・ヒューマニティが同居する〈セカイ系〉的な感性が、見事に表現されている。

東浩紀は、〈セカイ系〉に頻出する荒唐無稽な設定を、自分事として読者に受け入れさせる文体を、「半透明」なものだと言った。これは柄谷行人が、近代文学=自然主義文学を可能にした文体を、「透明」と言ったのになぞらえたものだ。

言葉がもし「透明」だったら、作品世界は現実の描写として理解される。したがって、日常の論理を超えた世界を描くためには、描写に説得力をもたせるために膨大な手続きが必要となる。実際、自然主義的リアリズムのうえで作品を記しているSF作家たちは、設定にたいへんな労力を傾けている。他方で、言葉がもし「不透明」だったら、作品世界は最初から現実を離れて理解される。荒唐無稽な物語や状況はいくらでも描くことができるが、読者の等身大の感情移入を誘うことは難しくなるだろう。(中略)
しかし、まんが・アニメ的リアリズムの「半透明」な言葉は、そのどちらでもない表現を可能にしている。キャラクター小説の登場人物は、マンガのキャラクターをモデルに描かれているため、身体をもちながら記号的であり、人間でありながら人間ではない曖昧な存在として受容される。したがって、読者は一方で登場人物に簡単に同一化することができるが、他方でその行動が現実からいくら離れたとしても、それもまた自然に受け入れることができる。

東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』

私たちは「世界の終わり」が想像しやすくなっている現状を受け入れつつ、ヒューマニティの回復を考えたいわけだが、『CROSS†CHANNEL』で示された「人ではないモノとして、人の営みである物語をその外側から眺めながらも、本当は物語に関わりたいと願う」という幽霊的=準-客体的=現実に対する「半透明」な立ち位置は、こうした課題に応えるための強力な助けとなってくれるはずだ。

そして、この上で実際に「三大セカイ系」と呼ばれるものを改めて見てみると、いずれも受け手がこの立ち位置に立ちやすい構造を備えていることに気づく。
小説である『イリヤの空、UFOの夏』は、三人称で書かれており、主人公とヒロインを取り巻く人物の視点も詳細に描かれていることが、受け手に対して(主人公と決して同化しない意味での)恋愛アドベンチャーゲームのプレイヤーに近い立ち位置を与えるものになっている。
漫画である『最終兵器彼女』は、何よりも絵のタッチの持っている力――繊細さと破壊衝動の同居する筆触――が非常に大きい。

『最終兵器彼女』より、終盤で「兵器」としての機能に自我を侵食されるヒロイン・ちせ。

引用した画像のような表現――人格が壊れ、「人のようで人ではないモノ」の存在感を感覚的に叩きつけてくるような表現――は、「主人公を愛するヒロイン」にも「ヒロインを愛する主人公」にも、容易に感情移入をさせてくれないのだ。
アニメである『ほしのこえ』は、同じ視覚表現である『最終兵器彼女』と同じで、画面から新海誠という制作者の手仕事の痕跡を如実に感じとることができる。
ただ、こちらは紙とペンという原始的な道具による、タッチの使い分け方が一般人にもイメージしやすい漫画と違い、デジタルツールをふんだんに用いて作られている、ということがわかりやすいものとなっている。実際、「個人でアニメをつくった」新海誠の特異性については、当時一般に普及し始めたAdobeのソフトウェアやiMacなどのソフトウェア/機器とセットで語られることが非常に多い。
「こういうソフトを使って、こういう技術的な可能性と制約の中で作ったのだろう」というテクノロジーの言葉に還元されやすいこと。作家ではなく、ある意味ではテクノロジーが主体となってその作品を出力したような語りが可能なこと自体が、「人のようで、人ではない」第三項の位置を確保するものだと言える。

〈セカイ系〉はその発祥から20年の時を経て、さまざまな意味で時代錯誤な描写も含むものになっている。しかしその没入できなさすらも、「君と僕」の外側に強制的に置かれる、という意味ではポジティブに働くだろう。たとえば『ほしのこえ』におけるガラケーの使用や、それ単体では感情移入のしにくい人物デッサンの拙さも、そのようなものとして考えることができるのである。

(続きは現在執筆中の書籍に……反映されるかもしれないし、されないかもしれません)

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