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セカイ系同人誌『ferne』特別企画 『シン・エヴァンゲリオン劇場版』座談会

11月23日(火祝)の第三十三回文学フリマ東京を皮切りに、いよいよ刊行となるセカイ系同人誌『ferne』。詳しい内容紹介は下記のリンク先に譲るとして、半年前の第三十二回文学フリマ東京にて「準備号」としてフリー頒布した『シン・エヴァンゲリオン劇場版』座談会を再掲します。本誌収録の座談会「セカイ系・日常系・感傷マゾ」にご参加いただいたお三方をお招きしまして、収録の時系列的にはこちらのほうが後になります。本誌の雰囲気を掴んでいただけると幸いです!

『ferne』本誌についてはこちら。

【座談会参加者(五十音順)】
北出栞(北) @sr_ktd
サカウヱ(サ) @sakasakaykhm
ヒグチ(ヒ) @yokoline
わく(わ) @wak

※以下、作品タイトルは略称表記

「新劇場版」はエンタメであることに失敗した?

 本日はよろしくお願いします。本誌の座談会ではあえて「エヴァ」シリーズの話題を避けて別のテーマを掘り下げたので、今回はたっぷり『シン・エヴァ』および「エヴァ」シリーズ全体について語っていきましょう!

 自分はこの中で一番オーソドックスな読み方をしていると思うので、ざっと話しちゃいますね。作品を監督の個人史の反映とするような読み方って、あまり正道じゃないと思ってるんですが、エヴァに限ってはそういう読み方を視聴者と作り手の共犯関係が許してしまうところがある。『破』と『Q』で、シンジ君が自分の望みを叶えるためにエヴァを使って何度も失敗することも、『シン・エヴァ』でシンジ君がすごく落ち込むのだけど、ほかの人たちの助けでもう一度エヴァに乗ることが出来ることも含めて、自分は「(シンジ君が)エヴァに乗る」ということと、「(庵野さんが)映画を作る」ということを重ね合わせて捉えています。

庵野さん、新劇場版を作り始めた時には、もっと突き放した作り方ができると考えていたんじゃないかな。『序』(2007)の公開前年に書かれた所信表明を読むと、「我々の仕事はサービス業でもあります。当然ながら、「エヴァ」を知らない人たちが触れやすいよう、劇場用映画として面白さを凝縮し、世界観を再構築し、誰もが楽しめるエンターテイメント映像を目指します」とあるんですが、僕含め多くの人がこうやって庵野さんの個人史を読み込んでしまっているということ自体が、その「新劇場版による『エヴァ』のエンタメ化」の部分的な失敗を意味していると思うんです。

結局『シン・エヴァ』は庵野さんが当初画策したエンタメではなく、旧劇場版(『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』)がまだ刺さって抜けない観客を解放するための作品に、結果的になったと思う。じゃあ、どこにそのターニングポイントがあったのか……。新劇場版、当初は三部作を2年かけて発表する計画が、最終的には14年かかったんですが、特に三部作の最後が『Q』(2012)と『シン』(2021)に分割されて、その間にかなりの時間がある。庵野さんは多分その期間に、自分はエンタメとして「エヴァ」と付き合うことができないことに気づいたんじゃないか。

『シン・エヴァ』劇中でも「君はリアリティの側で立ち直っていたんだね」とカヲル君が言いますよね。庵野さんみたいな、いわばフィクションやコンテンツに対する思い入れの「鬼」みたいな人が、フィクションの力によってではなく現実を生活する中で立ち直ってきたというセリフを書かざるを得なかったことを、僕らはもっとストレートに受け取って良いと思うんです。

カラーや周りの人たちに助けられなければ『シン・エヴァ』はなかったという、庵野さんの所信表明からの変節・挫折と、そこからの復帰の経緯が、『シン・エヴァ』にダイレクトに反映されていたと思います。

 確かに徹底したエンタメだったのって『破』までだと思うんですよね。『シン・エヴァ』を観て思ったのも、エンタメというか、商業的作品として収めようと思ってる部分と、庵野秀明個人の感情的な部分や人生観が混ざりきってしまっている作品だなということ。「区分できないけど、さてどうしよう?」となっているのを超えて、「もう区分しないで、ある程度きれいな形にしよう」という、ある意味での人間っぽさが垣間見える作品と思いました。商業作品でもあるし個人のフィルムでもあるという、マージされた作品だなというのはすごく感じましたね。

 「リアルで立ち直った」じゃなくて「リアリティの中で立ち直った」なんですよね。あれが「リアル」だったら「フィクション」と「リアル」の対立みたいな感じで考えられると思うんですけど、あえてリアリティと言った理由ってなんなのかなというのはちょっと気になってます。「エヴァンゲリオンイマジナリー」というのが出てくるから、「イマジナリー」に対する「リアリティ」ということだとは思うんですが。

 それで言うと、僕が『シン・エヴァ』で一番いいなと思ったのって、まさにリアルやリアリティの対義語として「フィクション」ではなく「イマジナリー」って言葉を持ってきたところなんです。これって和訳すると「思い込み」だと思うんですね。個々人の中にある「エヴァンゲリオンかくあるべし」みたいなものが、「エヴァンゲリオン・イマジナリー」で。

フィクションを解釈するのも、リアル、つまり自分の身の周りの生活を解釈するのも、結局その個人の解釈によるという意味ではイマジナリー、思い込みになるという危険性を常に含んでいる。逆にいえば虚構と現実というのは必ずしも対立するものではなくて、対立するものがあるとしたら、それを一人の想像の中に閉じ込めてしまう思い込み、イマジナリーなんだという、この三すくみの図式を出してきたという風に僕は捉えていて。そのようにして「虚構と現実は対立するものじゃないんだよ」というところに落ち着いたのを、僕は『シン・エヴァ』のすごくポジティブなメッセージだと受け取ったんですね。

だからこそ最後のシーンも現実の風景をドローンで撮影して、溶け込んでいくような映像で終わるんだろうし。同じ実写を使っていても、「現実に帰れ」という旧劇場版の質感とは全然違うから。

 あのシーンっていろんな意味でポジティブですよね。ラストシーンが実写なのに対してキャラクターは2次元で、しかも電車に乗ってアスカとかレイとかカヲル君は別の方向に向かって行くというのも含めて。

現実の背景の中にフィクションのキャラクターがいてもいいということだし、駅前に普通の人たちも3DCGで描かれていたじゃないですか。リアリティの世界の中にフィクションのキャラクターが生きている感じを、すごい自然に作ってたなと思います。

 その辺り、25年で現実と虚構の境界線みたいなものがどんどん変わっていったみたいなことがやっぱりあるんですよね。もちろんVRとかもそうですし、何か現実と虚構、アニメを観ている時の自分と観ていない時の自分みたいな、そういうくっきりとした分け方がもうできなくなっているというのはあると思うので。

 パンフレットに載っていた「我々は三度、何を作ろうとしていたのか?」という文章にも、『シン・ゴジラ』でやった実写とアニメーションの融合みたいな技術を持ち込んでみたんだという話が書かれていましたけど、やっぱり庵野さんは第一にアニメーションのクリエイターで、新しい技術を取り入れたいという気持ちが強い人なんだなと。庵野さんの心の変遷だけじゃなく、今だからこそできる3Dとかドローン撮影とか、そういう技術的な進歩が刻まれているという見方も、今作においては絶対必要だなと思いますね。

 スタジオから立ち上げてスタッフを指導して作品を作るというのを、ずっと新劇場版でやってきたわけじゃないですか。それだと「現実と虚構」というテーマを単純に二項対立でやろうとしても、「アニメを作るために、現実では会社をやってるのは何なんだろう」みたいな気持ちが生じて、綺麗に分けて考えることができないんじゃないのかなと。

旧劇場版まではやっぱり「作家・庵野秀明」みたいな、個人の芸術家的な監督の下にスタッフがいるという構図だったんだけども、新劇場版だと本当に経営者というか、スタッフのことを考えて作品を作ってるんだなと、実際に観ていても感じたので。そういう意味で虚構と現実がくっきり分かれているか否かというのが、やっぱり旧劇場版とシン・エヴァの違いに反映されているのかなというのを感じましたね。ここ何年かで経営者目線のインタビューみたいなのも増えましたし。

 『BRUTUS』のインタビューでは、不動産収入があるのでそこで結構お金の面では安定してるみたいなこともちらっと書かれてましたね。

 日本のアニメ監督で有名な人、例えば宮崎駿とか押井守とか富野由悠季とかを並べた時に、一番社会人として大人に見えるようになったのが庵野さんだったというのはちょっと驚きなんですよね。正直25年前に旧劇場版を見たときに、「こういうのを作ってる人が、25年後は一番大人になるよ」って言っても誰も信じなかったと思うんです。

 庵野さんって「特撮博物館」はじめ、文化保全の事業もやっていますよね。押井さんとか富野さんと違うのって、その辺りの感覚なのかな。宮崎さんも航空機とか兵器とかの歴史には目配りしてるんだけど、それに対して公共事業的なことをやったりはしないじゃないですか。

 たしか宮崎さんはジブリの森という、所沢辺りの森の保全に参加したり、近所でのごみ拾いなど、そういう形で社会とつながることはしてるんだけど、アニメ業界の博物館を作るとか、文化全体を考えた活動しているかというとそうでもなかったり。

 庵野さんはそういう意味でもオタクなんですよね、「創作の歴史オタク」っていうか。やっぱりちゃんと「こういう流れがあって、自分の作品はこう位置付けられる」っていう見取り図が自分の中にできている人で、だからこそ保存の意識というのもすごくあるんでしょう。つい最近も、『シン・ウルトラマン』に続き『シン・仮面ライダー』も監督すると発表されましたしね。

第3村の「リアリティ」

 僕が『シン・エヴァ』の中で一番納得してるのは第3村のシーンなんですよね。やっぱりあれだけの長さがないと『Q』の後のシンジ君は立ち直れなかったんだなと思います。うつ病の患者の人が立ち直る過程を見ているような感じで、説得力がありました。

 トウジとかケンスケって、トウジはテレビ版では一応エヴァに乗りましたけど、エヴァに乗りたくても乗れない人の代表だったじゃないですか。あれって鉄オタが鉄道会社に就職できないような悲哀があると思うんですけど(笑)。そんな彼らでも状況によって第3村を通して社会の中で役割を見つけて、それなりにやってるという姿はいいなと思いましたね。

 ケンスケって農業を免除されているんですよね。その代わりに何でも屋って立場で見回りとかインフラの整備とか、子供たちに勉強を教えたりもしている。どなたかの感想でハッとしたところなんですけど、トウジとケンスケがシンジについて二人で話している、手術用の機械か何かをメンテしてるシーンでトウジが「早く碇もこの村に馴染んでくれればいいのになぁ」みたいなことを言って、ケンスケの横顔が映るんですけど、その言葉に対して彼はちょっと難しい顔をして黙っているだけなんですよね。

そこから読み取れるのは、ケンスケというのもある種あの村では外れものなんだと。自分の得意な工業系の知識とかを活かして貢献をしているし、そういう意味では別に仲間外れってわけではないんだけど、どうしても農業とかは自分の得意なことではない。そこにある種の後ろめたさに近いような感情もある人として描かれていて。逆に言えば、そういう人でも受け入れてくれるような村として描かれているってことでもあり、第3村という狭いコミュニティの両面性に足を掛けている人物として、ケンスケがいると思ったんですよね。

 それ言ったの僕かもです。その時のツイートでも言ったんですけど、トウジはやっぱり地元にすごい密着したマイルドヤンキーみたいな奴だなと(笑)。テレビ版のときから熱血ヤンキーみたいな感じでしたけど、それが結婚してめちゃめちゃ地元に貢献、みたいな感じになってたのに対して、ケンスケはひさびさに地元に帰省したオタクみたいな感じの雰囲気で。その距離感が、まさにさっき北出さんがおっしゃったシーンでケンスケが黙っているところに表れていたなと。

あと村の中心のところじゃなくてちょっと外れた場所、廃墟みたいなところに住んでるじゃないですか。あそこも別に排除されているわけじゃなくて、ちゃんと場所を与えられているという。すごく上手いロケーションの使い方だなって思いましたね。

 トウジが「早く馴染めばいいのに」って言ってるのに対して、ケンスケは「立ち直るまでほっといたらいいよ」ぐらいの感じのことを言っていて、最後シンジがヴンダーに乗る時も言うほど引き留めない。あの辺の対比はしっかりしてますよね。ずっとトウジの所にいたら多分シンジは立ち直れなかったんじゃないかな。あのケンスケの距離感みたいなのがあったからよかったんだと思う。

 シンジがトウジやケンスケたちに親切にされたときに、最初は優しさとすら認識できなかったんじゃないかって印象がありますよね。自分を責めてるんじゃないかとか、そういう風に悪い方向に受け取ったりしたんじゃないかなと。「なんでみんなこんなに優しくしてくれるんだよ」と、そういうふうに認識できるようになったのも、ほっといたケンスケはやっぱりベストの選択をしたんだなって。

 あの廃墟みたいな場所で「なんでみんな僕に優しくしてくれるんだよ」って言うのが、たぶんシンジ君の初めてのセリフですよね。綾波(仮)が「碇君のことが好きだから」って言って、ケンスケの家に戻ってきて、アスカが「もう大丈夫なんだ、初期ロットがなんか言ってくれたから」みたいな感じのことを言うから、綾波(仮)が結局シンジの心を溶かしたみたいな風に思わされがちなんだけど、綾波(仮)の言葉はあくまできっかけで。

やっぱり村のみんなが優しくしてくれるっていうことに対して、他人がそういうふうに自分を気にかけてくれてるってことをシンジがちゃんと受け止められるようになったのは、内面に向き合うという作業があの場所であったからだと思う。これは実体験としてもすごくわかります。ロケーションも含めて、村の中にああいう場所があったというのはすごく象徴的でいいなと思うんです。目の前に青空と海と瓦礫だけが広がっているっていう。

ケンスケがフィーチャーされていることも含めて、第3村ってテレビ版第四話「雨、逃げ出した後」の反復になっていると思うんですよ。あの時は結局ネルフの黒服が来て強制的に連れ戻されちゃうわけですけど、今回は回復するまで放っておくというスタンスが取られている。「逃げちゃダメだ」が代名詞になってるエヴァという作品で、「逃げる」ことで回復することもある、そのポジティビティを描き出したのにはすごく意義があると思います。

 自分も田舎出身ですが、田舎には温かみもあるかもしれないけど、その温かさゆえの狭苦しさもありますよね。第3村はみんなが温かいからいいっていうだけじゃなくて、ケンスケの都会的な感覚、人に対して適切な距離感を取ることの優しさがいつも隣にあったのが、シンジ君の岐路だったかもしれない。

 第3村は村のデザインも好きなんですよね。あれがだいたい何年代くらいの建物とか風景を想定したのかはよくわからないんだけど、たぶん戦後の復興から高度経済成長期の間くらいじゃないかなっていう印象は受けるんです。かといって昭和ノスタルジーみたいなものに接続しているわけでもなくて。ノスタルジーって記憶を美しく編集することなので、現実的な要素はカットする方向性があると思うけど、あの第3村を見てると屋根の上に太陽電池みたいのが乗ってたりだとか、働きに行くときにお母さん同士で子供をお互いに預かったりとかしていて、本当に村が健全に成立しているっていうのが腑に落ちる描写は多いんですよね。

綾波がプラグスーツのまま田植えをするのも最初ちょっと笑っちゃったんですけど(笑)、テレビ版の第3新東京市って、街の風景の中に人が全然いない場所だったじゃないですか。人の生活が見える第3村で、エヴァを象徴するコスチュームのまま田植えをするっていう、まったく真逆の要素を取り合わせたのは面白いですよね。

もちろんあの第3村自体が「宮崎駿とか細田守とかが描きそうな、田舎の原始共同体じゃないか」みたいに、そう言いたくなるのもわかるんですけど、ああいうところまで持っていかないと多分エヴァを終わらせられなかったんだろうなって印象はやっぱりある。シンジ君自身が壊した世界を復興させていくような話の流れにするために、第3村という戦後の復興期っぽい背景にして、実際そこに人が住んでいるのがあり得そうな設定を作ったのかなと。

 今わくさんがおっしゃった第3村のリアリティというのは、「ここからここまで距離があったら、このくらいの大きさの荷物は台車とか使わないと運べないよね」とか、実際の人の身体の動きに基づいたシミュレーションみたいなことも含まれていると思うんですよね。というのもパンフの鶴巻和哉さんのインタビューを読むと、第3村ってミニチュアを作っていて、実際にカメラを動かしてその写真のアングルをもとにコンテに起こすという工程を踏んでいるらしいんです。田植えの動きとかも全部モーションキャプチャーで撮って、それを参考にコンテに起こすってことをやっているらしいんですよ。イマジナリーで意味的な次元で突っ走っていった旧劇に対して、手の届くわかる範囲のものを作り込んでいくという方向性を落とし込むために必要とされたのが、第3村という舞台なんだって見方もできるんじゃないかなと。

 突然農村とか描かれても押しつけがましくないなっていうのはすごい僕も思って。僕があの村の中で一番印象に残ったセリフは、ケンスケがシンジに、トウジとヒカリが結婚した馴れ初めについての話をするところなんですけど。「ニアサーも悪いことばかりじゃない」みたいに言ってましたよね。

第3村って現実には復興村とか仮設住宅とかそういうものの類だと思うんですけど、現実のニュースではそういった場での孤独死とか、悲惨なものとして報道されがちじゃないですか。でもそこに生きている人たちの希望を見たいという気持ちも必ずあると思うんです。外からは家が無くなって大変だみたいな雰囲気に見られがちですけど、そこに生きる人たちはそれなりにちゃんとやっているっていう、前向きなメッセージもあるんじゃないかなというのは感じましたね。

 「プロフェッショナル 仕事の流儀」の予告で庵野さんがミニチュアを撮影している映像を見て、第3村は庵野さんの箱庭だったのかな、とも思いました。庵野さんが自分をミニチュアの街の中に置いて、シンジくんが立ち直っていく道のりのシミュレーションを繰り返したのかもしれない。

 それって「エヴァ」という作品、特にテレビ版の第3新東京市と同じ構造とも言えるんですよね。あの村の外側には首がないエヴァみたいなものが蠢いていて、いつ今の平和な生活が崩れるかわからないという状態じゃないですか。街に人が住んでいて、外からわけがわからないものが来るかもしれないという感覚は、まさにテレビ版を最初に見た印象と重なったんですよね。

ただ、第3新東京市だったらビルがいきなり変形したり兵器が出たり、本当に守るべき人間って誰かいたのかというと全然見えなかった。今回は外によくわからない怪物みたいなのがいたとして、じゃあその中で生きている人はどうなんだろう、というシミュレーションがちゃんとされていたという違いがある。

 つまり特撮フリークな庵野さんならではの作り方として一貫しているんだけど、「鳥の眼が虫の眼になった」みたいな変化はご自身の中であったということなんでしょうね。

 あと、あんなに電車いらないでしょっていう(笑)。あの規模の村だったら、自家用車を村営バスにするとかそのレベルで充分だと思うんですけど、電車がやたらあって、しかもその車両を図書館にしたりしている。その辺りもミニチュア的な想像力って感じですごく良かったですね。

 第3村って多分操車場……電車が夜いるところみたいな場所を採用した感じですよね。『破』でアスカの「えーっ、手で受け止める!?」という台詞が入るあたりの作戦会議中、固定されて寝かされたエヴァが回転した運ばれるシーンがあったと思うんですけど、あれって操車場だったんだなって。「エヴァ」の想像力ってすごくSF的に見えるんだけど、結局のところそのイメージの根源というのは、現実に存在する電車とか意外と身近にあるものから来てるんだなというのは、改めて思いましたね。

綾波(仮)とアスカ、その違い

 アスカが綾波(仮)に対して「あんたのシンジに対する好意は元々設定されているものなのよ」みたいに言うシーンがあるじゃないですか。綾波(仮)はそれを「それでもいい」と受け入れる。そういう気持ちってある意味、どんなキャラクターでも作者によって設定されているものですよね。それを受け止めた上で、自分だったらどういう風にシンジ君に対して接するんだろうって綾波(仮)自身が考えて行動に移すのは、綾波(仮)を通じて「綾波レイ」というキャラクターが独立した瞬間を表しているなって思ったんです。

 確かに、25年のシリーズ全体を通して初めて「綾波レイ」というものが自分の人生を生ききった、という感動はすごくありましたね。

 旧劇までは「綾波レイ」がどういうことを考えているのかっていうのはいまいちわからなくて、こういうことを考えているのかなとか、視聴者ひとりひとりが「綾波レイ」像を想像するというタイプのキャラクターという印象だったんだけど、『破』ではいきなり「ポカポカする」とか言い始めて、それはそれで困惑して(笑)。今回は初めて主体的に自分の人生を選択するような流れがあったから、「それでもいい」というあの台詞はすごく好きですね。

あと綾波(仮)って、ずっとプラグスーツじゃないですか。村の中では異質な存在で、おばちゃんたちは全然その背景を知らないけど、それでも受け入れてくれる。あの辺りの優しさというか懐の広さもすごくいいなと思いました。

 誰もそういうことを言ってられない状況だったんでしょうね、あそこにいる人たちって。よそ者とか内の者とか言ってられない状況であのコミュニティが出来上がっているから、別にプラグスーツずっと着てる綾波を見たところで動じない。

 ひょっとしたら、綾波(仮)よりも変な奴がかつていたかもしれないってことですよね(笑)。あれごときの変さでは動じないぜっていう。

 シンジが「君は綾波じゃないじゃないか」と言って、結局名前をつけないじゃないですか。たぶんあそこで名前がつけられてたら、脚本のセオリー的には綾波(仮)は死ななかった気がするんですよね。結局名前はつかなくて、NERVの外では生きられないという運命からも逃れられなかったわけですけど。それでも最後の最後に「生きててよかった、碇君に会えて良かった」ってことを言うじゃないですか。異質なものを受け入れてくれる場所で、「綾波」としてある程度希望がある形で、その間に綾波(仮)の人生が終わったというのはすごくいいシーンだと思うんですよね。

 そのくだりではちょっと消化しきれてない部分があって。綾波(仮)が最初に名前をつけてくれって言った時に「いや、でも君は綾波じゃないし……」って言って断るのに、最終的に「綾波は綾波だ、他に思いつかない」って言うじゃないですか。シンジにとって「綾波」という名前が指している対象って結局何だったんだろうなと。

 大前提として、シンジが『破』で「来い、綾波!」って呼んだのは『破』までの綾波だから、『Q』とか『シン・エヴァ』に出ているNo.6の綾波はその綾波じゃないっていうのがありますよね。そこからシンジの中ではNo.6のほうの綾波(仮)をどういうふうに捉えていいかわからなかったのがずっと続いてたんだけど、それまでの綾波と違うのは「碇君のことが好きだから」って言ってくれたところだと思うんですよね。

多分あの「好きだから」って言うのって、綾波(仮)がシンジのことを好きだからって言う意味もあるんだけど、それ以上にトウジとかケンスケとか、村のみんなが君のことを大事に思ってるんだよってことだと思うんですよね。それに対して、『Q』とか『シン・エヴァ』における「綾波」って結構ボヤッとした概念的なものというイメージがある。つまりシンジにとって「綾波」というのはひとつの概念になっているからこそ、その名前を彼女につけることができない。

 なるほど、つまりあの台詞は「君は綾波だ、だから綾波以外の名前が付けられない」という意味ではなくて、「『綾波』という名前には大きな意味がありすぎて新たにつけることはもはやできないけど、かと言って他の名前をつけることもできない」というのが圧縮された表現ってことですね。

 一番最初に「名前を付けられない」って言ったときは、やっぱり『破』までの綾波のイメージをあの外見に対して投影している部分があったと思うんです。『Q』のネルフ本部での綾波(仮)とシンジの間には、大した交流もなかったから。けど第3村で一緒に生活していく中で、シンジの中でも「綾波レイのそっくりさん」という固有の人物が心の中で立ち上がってきた印象なんですよね。それで名前をつけようとしても『破』までの綾波に引っ張られて「でも『綾波』しか思いつかないしな……」っていうのが2回目の台詞じゃないかなと。

 もし綾波(仮)本人が何かの別の名前を思いついたとしたら、それをシンジ君は受け入れたんじゃないかなって気もしますよね。

 自分が名前の問題にこだわっているのは、アスカ問題にも関わってくるところだからなんですよ。「惣流」と「式波」は同じ「アスカ」なのかという問題。ちなみに、個人的には新劇場版に出てきたのは徹頭徹尾「式波」でしかないっていう立場ですね。

じゃあなんで「式波」として描かれたのか。自分の考えでは、旧劇場版で「究極の他者」として惣流・アスカ・ラングレーという存在が描かれたわけですが、それって大哲学者でも未だに解けていないような問題だから、「惣流」を救済するところまで描くのは誠実ではないというのがあったからなんじゃないかと。「式波」って名前をつけることで設定的にも今回のアスカは複製なんだよということにして、「惣流」に象徴される「究極の他者」との向き合いの問題というのは、あえて手付かずのまま残したんだろうなと。

観客は最後の別れのシーンに赤い海の「気持ち悪い」の景色を重ね合わせて見て、「ケンスケと結局くっつつくのかよ」みたいな反応をするわけだけど、僕から言わせると「そもそも違うんだから」ということになりますね。でもその代わりに、「惣流」がついぞ救われなかったことには向き合い続けていかなければならないということが、暗に示されているように捉えていて。

ただ、実際にシチュエーション的には似せてるわけだから、当然誘導している部分もあると思うんですよね。普通にあれを見て「惣流」も救われたと感じてくださいねって。そのあたりのさじ加減が、庵野さんの中でどういう風になっているのかは気になっています。

 その流れで言うと、旧劇場版までのシンジにとっての「絶対的な他者」って、ゲンドウもそうだったと思っていて。で、新劇場版になってゲンドウの名字も変わってるじゃないですか。「六分儀」じゃなくて、最初から「碇」になっている。だとすると、名字が変わった人物が、旧劇場版までのシンジにとっての「絶対的な他者」だったというのがあるんじゃないかなと。だからアスカともあの旧劇の波打ち際で和解するし、ゲンドウも自分の人生を振り返って納得して電車を降りていく……親子の和解みたいなものを果たすというのがある。

 なるほど。旧劇場版を旧劇場版たらしめているあの二人に関しては、名字を変えることで完全に別のキャラクターとして描くことの符牒にしているんですね。

『Q』を改めて観返すと……

 『Q』とか第3村までの展開は、多分、東日本大震災の影響があったと思うんです。でもそれ以降の展開を考えると、大筋のところはもしかすると新劇場版の結構はじめのほうから考えてたんじゃないかなっていう印象を受けるんですよね。

 『破』の予告も、『Q』のときは全然関係ないじゃん! ってなったんですけど、今観返すとちゃんと辻褄が合ってるんですよね。

 カヲル君が「渚司令」の服着てたり。

 そう。だからどういうシーンを乗せるかというのは別として、『シン・エヴァ』までの大筋のプロットはもうあの時点でできていたんじゃないかという気はしますね。

 シンジがああいう状態になって、そこから立ち直ってゲンドウと向き合うっていう、その流れを新劇場版として描く意味とか、どうやれば説得力があるのかというのが実際には悩みどころだったんじゃないかなと。

その結果として出た答えが、『Q』のあのラストで「これ僕がやったの?」というのを実感した衝撃から、「ニアサーも悪いことばかりじゃなかった」というところにたどり着くまでの、「復興」というプロセスだったんじゃないかと。正直『Q』を見た時は東日本大震災とか、そういう現実的な要素を入れないでくれって思ったんだけど、やっぱり『Q』と第3村がなかったら、シンジとゲンドウの和解も難しかったんじゃないかって気がしましたね。

ゲンドウの、子供の頃から俺はこういう人間だった、と言う独白にかなり庵野さん個人の気持ちが投影されていると思うんですけど、ああいうのって特撮とかにありがちで。妄想の世界の中で、怪獣だとかで街だとかを破壊していくという想像力があるわけですけど、そういうものに対して向き合うという意味でも、破壊とそこからの復興という要素はやはり重要だったんだろうなと。

 自分は『Q』を観返して、スイカ畑と赤く錆びた蛇口や、S-DAT(カセットプレイヤー)のカットがかなり含まれていたことに気づきました。どちらもそれぞれ、第3村の綾波(仮)の農業シーンや加持の播種計画、ゲンドウにS-DATを返す『シン・エヴァ』の重要シーンへの伏線としてきちんと機能している。そういうところからも、かなり初期の頃から、今回の着地点は決まっていたのかも。

 『序』は基本的にはリメイクだったから、差分を探すのに結構みんな躍起になっていた記憶があるんですけど、S-DATに関してはその中でも特に言及が多かった記憶がありますね。

 「S-DATが壊れたところが物語の分岐点だ」みたいな考察を、当時すごく見たような気がします。

 しかしあのゲンドウに返すシーンは衝撃的ですよね。スーッてATフィールドを貫通していくあの描写は。

 ゲンドウはATフィールドを出して「私がシンジを恐れているのか!?」みたいなことを言ってますけど、シンジ君はもうATフィールドというエヴァの象徴的なモチーフを無視して「はい、これ返す」って。それこそ「ATフィールドとはこじ開けるものだ」というエヴァンゲリオン・イマジナリーから、もうあの時点のシンジ君は抜け出してますよね。

 綾波からシンジへ、シンジからゲンドウにS-DATが渡される流れって、実はテレビ版の時からスタートしていて。シンジがそれを聴いているときはずっとモノローグになってる印象があったんですけど、そういう風に他人を拒絶するときの象徴的なアイテムを、こんなにポカポカするアイテムにしてくれたというのはすごく良かったですね。

ちなみに旧劇では、本来ミサトさんの十字架も似た役割だったはずなんですよ。でも葛城博士からミサトさんへ、ミサトさんからシンジへ渡された十字架は、ミサトさんの死をシンジに印象付けるだけで役割を終えてしまった。『シン・エヴァ』のゲンドウはきちんと相手の想いを受け止めているので、その対比もいいなと思いました。

「あ、エヴァって完成するんだ」

 僕は初回を新宿のTOHOシネマズで観たんですけど、観終わって気がついたら青梅街道に歩いてて、東高円寺くらいまで歩いちゃって。映画終わったけど、どうやって生きてきゃいいんだよみたいな感じになっちゃったんです。

自分はリアルタイム世代なんですけど、テレビ版は塾に行ってる時間と放送している時間が重なったからポツポツとしか観ていなくて、まともに観たのは旧劇場版が初めてなんです。テレビ版も観れてなかったし、きっと総集編みたいな映画だろうと思って観たら「なんだこれ!?」ってなったっていう。

その時以来旧劇場版が一番好きなんですけど、それと比べると『シン・エヴァ』には、正直カッコ悪いなと思うシーンはいっぱいあったんですよ。後半の「アディショナルインパクト」とか、「インパクト閉店セール」みたいにいっぱい出てくるところとか(笑)。

でも漫画家の広江礼威さんとか速水螺旋人さんのツイートで「いやなシーンがなく、すんなり終わった。旧劇がすごく好きだけど、あの綺麗な終わり方はこれでこれでいい」っていうツイートが流れてきて、それで納得できたんですね。とにかくあのエヴァンゲリオンを綺麗に終わらせるってすごいなことだなと。サグラダ・ファミリアが完成したみたいな。

 そうそうそう。ほんとそれなんですよね。「あれ、完成するものだったんだ」「エヴァって終わるんだ」って(笑)。

 で、納得した上で振り返ってみると、意外と『シン・エヴァ』と旧劇って、方向性としてはそんなに変わらないのかなとも思って。

人類補完計画って、人と人との境界線を無くしてしまえば他人については怖がらなくても済むというもので、旧劇場版でもシンジ君からそれを拒絶するじゃないですか。他人はすごく怖いんだけど、やっぱり他人と一緒に過ごしたいと言って。それでもやっぱり他人というものが怖いから、最後アスカの首を絞めちゃうという風に僕は解釈してるんですね。『シン・エヴァ』ではシンジとゲンドウがお互いに話した上で、でも旧劇の頃のような意味での「現実に帰れ」じゃなく、イマジナリーじゃなくリアリティのほうに行こうと言うので、方向性としては昔から変わってなかったのかなと。

ただやっぱり『シン・エヴァ』で、ゲンドウが「自分は昔はこういう人間だった」って独白するところ、あそこはどうしても自分とは合わないなと思うんですね。あんなに怖いと思っていた父親なんだけれども、その実は自分と同じような悩みを抱えた人間だった……得体のしれない存在だと思っていた人が自分と同じ人間だったってことだと思うんですけど、僕としてはやっぱり、「怖いけれども、それでもLCLの中にいるよりは他者と一緒にいたい」という旧劇場版のシンジ君の選択のほうが好きなんです。

自分が子供のころ見た父親って、やっぱりすごく大きい人間だし、説教とかされたりして怖いわけですよ。でも自分が子供の頃の父親の年齢に近づいていくほど、他者としての部分じゃなく、自分と同じ部分のほうに目が向いていくのかなって実体験としても思うんですね。

だから「60歳の庵野監督が作った旧劇場版だな」っていうのが『シン・エヴァ』全体の印象なんです。旧劇場版当時の庵野さんは37歳とかですけど、いまとなっては『シン・エヴァ』で作中時間で14年経ったゲンドウと比べても、おそらく60歳の監督のほうが年上なわけですから。

ちなみに自分がこれまでに観た映画で『シン・エヴァ』と印象が近いのは、クリント・イーストウッドの『許されざる者』なんです。『夕陽のガンマン』とかですごくかっこいい、ミステリアスなはぐれもののガンマンの役を演じてきたイーストウッドが、ちょうど60歳くらい、今の庵野監督と同じ年齢ぐらいの頃に作られた西部劇で。ひさしぶりに馬に乗ろうとするんだけど、うまく乗れなくてこけちゃう、といったシーンがあるんですね。「今まであんなにカッコ良かった人も、こんなに年を取ったんだ」って思わせる作品で。そんな風に、自分が歳をとったということを今までで一番うまく認識して、それを受け止めた映画なのかなというのを『シン』についても思ったんです。

 あのゲンドウの独白シーンについて僕が思うのは、「エヴァ」というものを終わらせるにはこうせざるを得なかった、という、いわば論理的な帰結なんじゃないかってことですね。ゲンドウの気持ちを描いたのは自分がかつての父の年齢に近づいたからだっていう、それがゼロだとは言わないですけども、どちらかというと物語の構造的な要請だったんじゃないかなと。

 うーん、綺麗に終わってるからあれもこれも終わらせるためだったって言いたくなるのもわかるんですけど、自分自身の感覚としてはやっぱり違うんですね。

僕も父親とはそんなに仲良くなかったんですけど、「父親も自分と同じ人間だったんだ」じゃなくて「自分とは違う人間だったんだ」って気づいた時のほうが救いを得た感覚があったんです。「父親も自分と同じ人間だったんだ」って、下手すると30代どころか40、50代とかになってからの気づきだと思うんですよ。シンジ君がいきなりすごい大人になって、ゲンドウ以上の年齢ぐらいになってしまったっていう印象を僕は受けて。一方、ゲンドウはゲンドウであの独白が50代くらいの人間の独白だとは思えなくて。なんか大学生のオタクにこういう人いそうだなっていう(笑)。

「現実の見方を変えてくれる」作品?

 その流れでいうと、僕はそもそもエヴァに対してキャラクターに入れ込んだりとか、主題的な意味でこうだとかいった見方を最初からあまりしてないんですよね。

時系列で言うと、テレビ版と旧劇場版をはじめて見たのは2007年、ちょうど大学に入学した年です。所信表明が2006年に出てますから、新劇場版っていうのをやるよと知って、予習的に観たんだと思います。そもそも深夜アニメというものを意識的に観出したのがその年ですから、エヴァ固有の主題が刺さったという以上に、「アニメ」というものを鑑賞する上での原体験みたいなところがありますね。

旧シリーズを見た時の感想は、テレビ版に関しては単純に映像編集のカッコよさと、あとは旧劇場版のドラッギーさにやられるという感じでした。電子ドラッグを注入されて頭がおかしくなるっていう、そういう経験だったんですよ。「シンジ君が~」とか、「アスカが~」とか、他者が云々とかっていうのを考える余裕なんて全然ない感じで。で、それで『序』を観に行ったらすごくツルっとしたルックの、まさにRebuildになっていて、あの二度と見たくない、けど唯一無二の経験だった映像をこんな「普通」にしていっちゃうのかっていう、ちょっとしたガッカリ感があったというのが最初の印象でしたね。

で、まあ『破』はド直球のエンタメというか、「来い、綾波!」みたいなところで普通に盛り上がって。『Q』に関しては、ちょうど僕が仕事を辞めてニートみたいになっていた時に観たので、逆にあまり衝撃を受けなかったんですよね(笑)。何をやってももうダメだみたいな気持ちのときに観たから、「こんなもんだよね人生って」みたいな感じで。

それから8年経って『シン・エヴァ』を観たわけですけど、そういう風に辿ってきたこともあって、「終わらせてくれた」ってこと自体への感動がまず大きかったのと、さまざまな技術を導入して、今最高のものづくりをするんだって気迫は旧劇場版と同じぐらい、めちゃめちゃ強く感じて。IMAXの最前列で観たこともあって、エヴァ・インフィニティが大量に出てくる辺りなんかは本当に飲み込まれるような感じで、物理的に「食らった」みたいな体験があって。

で、観終わった後に本当にフラフラになって、目がチカチカして動悸もすごくて、シアターを出て這うようにしてベンチに座って、しばらく動けなくて、下を向いて呼吸を整えてたんです。それで5分ぐらい深呼吸して顔上げたら……見える世界が変わってたんですよ。現実と虚構というテーマを、かつては「現実に帰れ」という形でやったのが、それを調停して「虚構も現実の延長にあるし、現実も虚構の延長にある」っていう終わらせ方をしていたことが体感としてすごく理解できて。

変な言い方ですけど、僕は2007年にアニメを観始めて以来、「現実よりも解像度の高いアニメを観ることによって、現実を理解する」みたいな生き方をしてきたんです。それがシン・エヴァ以降、現実もアニメと同じぐらいの解像度で見えるようになったというか、現実を見るのがそれ以降面白くなったみたいな感覚があって。

それでしばらく他のアニメを見る意義がわかんなくなっちゃったんですけど、でも数日経ってからまったく関係ないアニメ――『ウマ娘』2期の10話なんですけど――を観てみたら、もう前とは比べ物にならないぐらい感動して。

それまでは記号としての、絵の中に存在しているキャラクターというのは独立して生きているんだっていうことを、ある種アニメーターの人とか作り手の存在をカッコに入れて「キャラクターはキャラクターとして自立して存在しているんだ」っていう建前を勝手に作って鑑賞してたんです。でも、それはそれとしてありつつ、そのキャラクターたちが人の手で描かれているってことを認めたとしても、感動というものは決して薄れないし、なんなら人が絵を動かしているという、それ自体も奇跡的ですごく感動的なことなんだということに、『シン・エヴァ』を観て初めて気づくことができて。まさに現実と虚構というものが対立するものではなくて、目の前で起きている「キャラクターが動いている」ということに自分が感動できている事実、それ自体が奇跡的で感動的なことなんだと思えるようになったんですよね。

だから今までアニメを観てきたこと自体の壮大な答え合わせだったという感じがあって。『エヴァ』だからどうこうってよりも、「自分とアニメの関係」みたいなものが清算されたという感覚がめちゃくちゃ強いっていうのが、僕の『シン・エヴァ』に対する感想ですね。

 それって北出さん、めちゃめちゃ『シン・エヴァ』が刺さったってことじゃないですか。

 いや、本当に。今まで見ていなかった、見ないフリをしていたことをちゃんと見つめる勇気ももらえたし、すごく大きい経験でした。

 やっぱり今作、基本的に「『エヴァ』を終わらせる」っていう作品で、ラストの終わり方について納得するか、おじさんがぐちぐち文句を言ってるかみたいな、そういうどちらかの感想になっているのを多く見るんですけど、現実の見方が変わったとか、そういう感想はほとんど見ていなかったから新鮮ですね。

『シン・エヴァ』そのものは「セカイ系」的ではないが……

 あと、今回の座談会は一応「セカイ系同人誌」の企画というところもあるので、その観点からの感想も話させてください。

セカイ系って、そもそも定義上「ポスト・エヴァ」ってことになってるから、正確にはエヴァはセカイ系に含まれないって言い方もできるわけじゃないですか。「エヴァっぽい」、エヴァの後続作品に対して与えられた名前がセカイ系っていう経緯があるから。

なので「『エヴァ』を終わらせる」作品である『シン・エヴァ』もセカイ系そのものではないと思うんですけど、それはそれとして、セカイ系って現実と虚構の関係を問う作品がすごく多い。「君と僕」とか「世界の終わり」とか、「現実と虚構」というテーマを描くための最小限のパーツで構成された作品群だという印象はすごくあって、だから究極的には「全ての物語がセカイ系だ」とすら言えると僕は思ってるんですけど。現実と虚構の関係について「それは対立するものではない」という解を示した『シン・エヴァ』以降、どのような物語と出会えるのかということは、改めてすべての作り手と受け手に突き付けられた課題だと感じました。

あともう一個セカイ系との関連で言うと、旧劇場版って、世界が赤く塗りつぶされて終わったじゃないですか。今回の『シン・エヴァ』は、そこに青空と青い海が戻ってくる物語で。セカイ系の象徴的なイメージとして青空というのがあると思うんですが、テレビ版のオープニング映像も、まさに青空に溶けているシンジ君とヒロインのシルエットが映し出されていくみたいな感じですよね。つまり旧シリーズは「青空のイメージから始まって、そして赤で終わる」という構造を持っていたわけですが、そんなエヴァンゲリオンに青空が戻ってきたというのは、今回すごく象徴的だなと思って。

空の青というのは、光の屈折によって生じる見せかけの色で、その向こうには何もない。青という色は、現実と虚構の区別さえなくなるような特異点の象徴としてあると自分は感じているんです。対して赤って血の色だし、「自分」とか「肉体」とか、自己言及的な、「どこにも行けなさ」みたいなものを象徴する色だなと。それが青という色に抜けていったというのが、すごく希望を持たせてくれる終わり方だと思ったし、「ポスト・エヴァンゲリオン」=セカイ系という図式を改めて示してくれたなとも思いました。

 今お二人の話を聞いて、北出さんは『シン・エヴァ』が開いてくれた地平にすごく希望を持っていて、わくさんは庵野さんが老いたことの驚きを語ってくれたと思うんですけど、逆に言えば『シン・エヴァ』という「エヴァンゲリオンを終わらせるためのお話」を好意的に捉えるためには、ある程度我々も老いていなければならなかったという点は、今作を評価するにあたってちょっと難しいところだなと思うんですよ。

旧劇場版のシンジ君をそのまま『シン・エヴァ』に連れてきたとしても、この結末では救われないと思うんです。同じように、もし95年のエヴァにすごく共振した「シンジ君は俺だ」って人が今そのままタイムマシンで2021年にやってきて『シン・エヴァ』を観たとしても、救われるとは思えない。

庵野さんと一緒に老いてなければ『シン・エヴァ』を「いいな」とは思えなかっただろうなって感覚は、ちょっと複雑ですよ。もし90年代の気持ちを持ち続けることができた人がいるとしたら、その人は『シン・エヴァ』に「自分から離れていってしまった」という落胆を感じたかもしれない。我々の気持ちや思い入れ込みで『シン・エヴァ』は傑作になったかもしれない、って踏みとどまることは大事なんじゃないかとも思うんです。

 ヒグチさんのおっしゃったこともある一方で、「エヴァ」って例えばNetflixとかから、新しいファンも入ってきていると思うんですよ。今後も入ってくるだろうし。でも、そういう人たちに対して「『エヴァ』の正しい見方は旧劇から25年待つことなんだ」と言えるわけもない(笑)。

僕の周りを見てると、結構50代より上の人は傑作、もしくは「旧劇場版は好きだけど、これはこれで庵野さん大人になったね」という捉え方をしている。広江さんとかもそうですね。やっぱり30~40代くらいの人が、受け入れる人と拒絶する人に分かれているかなって気がします。意外と10~20代の人が思ったよりすんなり受け止めているなと。だから僕とかは庵野さん老いたなって感じたけれども、それとはまた別に20代とかからするとあのラストって結構いいものなのかもしれないなって。下手するとあのラストシーンとか、新海誠の『君の名は。』みたいだなって文脈から解釈している可能性もあるじゃないですか。

 若ぶるつもりはないですけど(笑)、僕もどっちかというとそういう10~20代に近い観方をしてるのかもしれないなという気はしていて。ちょっと感覚的な言い方になりますけど、さっきの話でいうと「赤っぽい」物語が好きな人と「青っぽい」物語が好きな人がいると思うんですね。僕は昔から「青っぽい」物語が好きな人だったから、旧劇場版ですべてが赤く染まっちゃったのにすごく困惑して、『シン・エヴァ』で青が戻ってきたことに感動というか、解放される感覚を覚えたんです。だから「青っぽい」物語……新海的と言ってもいいのかもしれないですけど、そういう物語が好きな人からすると、「エヴァ」というシリーズは「青から赤へ、そして青へ」というダイナミズムをこれ以上なく感じられるし、唯一無二の映像体験になっているんじゃないかなと思いますね。

本作の最注目キャラは「冬月」!?

 僕はエヴァに対してはストーリーというより、各キャラクターの変遷のほうに重きを置いて観ているところがあって。今回で言うとエヴァパイロットのキャラクターもそうなんですけど、どっちかというと冬月とか、あとは北上ミドリとか鈴原サクラのポジション、あの辺が結構終わりにしてはぶっこんできたなという印象なんですよね。

 鈴原サクラ周りのもろもろ、観た瞬間に「あ、これ絶対サカウヱさん好きなやつだ」って思いましたよ(笑)。

 まさか一番ぶっ壊れてる一般人が鈴原サクラだとはちょっと思わなかったですよね。だからサクラは今インターネットで一番盛り上がってる感じがしますけど。

北上ミドリに関しては、テレビ版とかを知らない人たち、「エヴァ」というものの外部の人っていう新しい目線を体現しているキャラクターになっているのがすごく大きいなと思ってて。ミサトさんとかってシンジ君に対して表向きはそっけなくしてますけど、ある程度取り計らっているというか。一方で単純にサードインパクトという現象だけを見れば、「家族も家もぶっ壊されてムカつくんですけど!」というのは当然の感情だと思うんですよね。当事者なんだけど、自分にはどうにも出来ない一般人というポジション。そんなサクラとミドリが銃を構えるところで対比されているのも、短いシーンながらかなり深掘りができるんじゃないかなと思ってますね。

 巨大綾波を見てシンジ君とかマヤみたいに絶叫するんじゃなくて、「絶対変!」って言うのがすごい良かったです。ファンはこれまで「それ変だよ」と思ってても言えなかったですからね、「プラグスーツなんて、こんな恥ずかしいの着て」って台詞も。パチンコ屋の前の看板でしかエヴァを知らない人みたいな(笑)、「なんか話題だから観に行ったけど、全然わからなかった」っていう、そういう人たちのポジションですよね。

 あと冬月について言うと、あの人こそ究極の一般人っていうか。エヴァに乗れるわけでもないし、補完計画の中心人物ではないじゃないですか。ただゲンドウのそばにいるだけで。

で、旧劇場版だと冬月って結局補完計画に飲まれてしまうんだけど、『シン・エヴァ』だとなんかめちゃくちゃ強くて。老人がめちゃくちゃ強いってそれだけで面白いし、冒頭でヤシマ作戦をお返ししてくるっていうセンスの良さも含め、すごい見せ場がある人でしたよね。

あと、最後のマリとの会話のシーンで「君の欲しい物は揃えておいたから、あとは適当によろしく」みたいな感じで言うじゃないですか。冬月って、血縁関係がある登場人物がいないからシンジとゲンドウみたいに家族に何かを託すみたいなことはできないんだけど、それでも誰かに次を託すってアクションを見せたという意味で、すごい重要な人物だと思うんです。絆とか愛みたいなものが今回は結構フィーチャーされていた中で、そういうステレオタイプ的な家族の枠組みから外れたところの存在でも、それに近いことができますよってメッセージを持っている人だなと思ったんですよね。

 僕も『シン・エヴァ』で一番好きになったキャラクターって冬月だったんです。もちろん最初に冬月が好意を持ってたのはユイだと思うし、ゲンドウはなんか嫌な奴くらいに思ってたんだろうけど、なんだかんだ長年ゲンドウの隣にいて、『Q』からのネルフ本部に二人だけいるっていうシチュエーションはすごくいいんですよね。

「碇のわがままに付き合ってもらうぞ」って台詞もすごく良くて。自分は若者じゃないって感じがにじみ出ていて、まさに悪役の副司令官のセリフだなあっていうか。「老人は死なず、ただ消え去るのみ」って言いながらめっちゃ抵抗してくるおじいちゃんみたいな、そういうキャラクターになっててすごく好きなんですよね。

それと比較するとゲンドウって冬月に対して一目もくれなくて、そこがちょっと寂しいなっていう。旧劇場版ではLCLになる瞬間に冬月はユイの幻影を見たんだけど、今回LCLになる瞬間には幻影すらいないですからね。何かそのこと自体に冬月も納得してしまってるっていう感じが、自分が不利な状況にいること自体を納得しちゃってる不憫女子みたいな感じがして、ちょっと気持ちが揺れ動いちゃうんですよ。

 自分の役割を割り切ってますよね。昔の冬月の描かれ方ってゲンドウの相棒みたいな感じでしたけど、今回はそこからも切り離して、一個人としての「年を取った人」になってるというか。本人も「老人の趣味に付き合ってもらうぞ」とか、自分に対して老人っていう言葉を使うじゃないですか。それまでは、まだ渋いけれども頼れるみたいなイメージがあったんだけども。清川元夢さんの声もかなり年取ったなーって感じでしたよね。

 清川さん、御年86歳とかですからね。庵野さんは声優さんを役柄にシンクロさせる作り方をずっと昔からやってきた人だから、もしかしたら清川さんご自身の年齢とかも踏まえた上で、冬月をそういう位置づけにしたという部分もあるかもしれないですね。

 あと、ゲンドウが都合のいい時だけ「冬月先生」って呼び方で関係性をちらつかせるみたいなところもいやらしく感じて。冬月はどうしてゲンドウに付き従っていたのか……たぶん息子代わり的な感じだったんじゃないかとは思うんですけど。

 冬月研究室にユイっていうすごい優秀な学生がいて、一方でゲンドウは何か暴力沙汰を起こして、冬月さんが身元引受人になりにいくみたいな話はありますね。で、そうこうしている内に「実は結婚しました」みたいな報告があって、という感じで。

僕はゲンドウがどうこうというより、どちらかというとユイとゲンドウを引き会わせてしまったこと自体への責任を感じてるんじゃないかなと思ってますね。

 『破』まではゼミの師弟関係というので腑に落ちるんですけど、『Q』以降もゲンドウと二人きりで一緒にいるというのは、それだとちょっとピンとこないんですよね。だってあの人、ぶっちゃけあの年齢だったらいつ死んでもおかしくないじゃないですか。それでもゲンドウの隣にいることを選んでいるからには、その感情はなんというか彼自身のものであってほしい気はするんですよね、責任感とかじゃなくて。見た目はおじいちゃんなんだけど、報われないサブヒロインみたいで応援したくなるんですよ。

個人的にこれだったら「『シン・エヴァ』、ありがとう」ってなったと思うのが、ゲンドウの回想シーンが始まる電車の中でゲンドウがシンジを見つめて、「そこにいたのか、ユイ」と言うときに、シンジの隣に冬月もいてほしいんですよ。ゲンドウは冬月に対して一目すらくれないでそのまま電車を降りちゃうんだけども、そんなゲンドウに対して「本当に仕方ない奴だな、碇」という感じの静かな笑みを浮かべて、ゲンドウの後ろについて冬月も電車を降りてほしい。「後は任せたぞ、第三の少年」って台詞もあったら100点(笑)。

 確かにそういう視点で振り返ると『Q』で「君には真実を知ってもらいたかった」ってシンジに気を遣ったり、『シン・エヴァ』で綾波(仮)がLCLになっちゃうのに対しても、「同じ苦しみを与えることで子のためとするか、碇」みたいな台詞を言ったり、あの親子自体を気にかけてるところがありますよね。

 そうですね。シンジを気にかけることによってゲンドウに気をかけてる、っていう風にも言えると思うんですけど。

迎えに来るマリと、送り出すミサト

 友愛の感情というよりは何かあの親子というものに対する感情がある。その流れで言うと、やっぱり言及しておきたいのがマリの存在で。世間では「マリエンドだ」みたいなことが言われたりしているわけだけど、漫画版最終巻のエクストラエピソードを見る限り、マリが恋慕していたのはむしろ同性であるユイに対してで。だからシンジのことをあんな虚構と現実の狭間みたいな場所まで助けにくるっていうのは、かつて好きだった先輩であるユイの忘れ形見というか、その子供であるからというところがすごく大きいと思うんですよね。自分がかつて好きだった人の息子だからこそ、マリなりの想いを持ってあそこまで一生懸命助けに行くんだろうなと。

だからマリもある種冬月と同じような立場にいるというか。半歩外側からゲンドウ・ユイ・シンジの関係っていうのを見ている人間だからこそ、冬月とマリは対峙して会話を交わすんだろうし、そこで突然「イスカリオテのマリア」っていうよくわからない単語が出てくるんだけど、その意味も実際のところ僕らにとってはどうでもよくて、まさにあの二人にしか分からない地平に立っているということの符牒として、あの言葉があるということなんだと思うんですよね。

 自分はやっぱりあのラストはマリとの結婚報告っていう風に解釈したんですけど。実写で庵野さんの故郷を映しているわけじゃないですか。「あの子にフられて、今度この人と結婚するよ」っていう、父と和解した息子の結婚報告って光景がすごく見えちゃったんですよね。

 まあ、結婚という形をとってなかったとしても、少なくとも生きるのに必要な相手というか。それが誰かにとっては結婚かもしれないし、誰かにとっては先輩後輩っていう言い方かもしれないし、幼馴染かもしれないし。

 自分もそういう感じかな。実際に結婚しててもいいし、してなくても良い。

 いずれにせよ、旧劇から出てきたアスカとか綾波とかとだったら、まだ「エヴァ」が続きそうな感じがしちゃってたと思う。個人的な思い入れとしては綾波だけど、そこでマリになったというのは「エヴァ」を終わらせるためならよかったなと。

 ゲンドウの独白シーンで割と工業地帯に住んでたみたいな感じだったから、メタ的な見方をしなければあそこはゲンドウの故郷の駅なんでしょうね。まあゲンドウの故郷にわざわざシンジとマリが降りるっていうのも謎なんだけど……ゲンドウの墓参りとか?

 でもマリが先に来てるってのもよくわかんないですよね。マリが先にいてシンジ君が後でスーツで来てるって。

 結局あの辺り、何もかも謎なんですよね。

 とりあえずシンジ君のDSSチョーカーをマリが外したところで宇多田ヒカルのイントロが流れ始めたのは、シティーハンターの「Get Wild」を超えたなって思いました(笑)。

あと、ミサトさんについて言い残したことを話してもいいですか。テレビ版の頃からミサトさんって、シンジに対する接し方についても、自分の中の大人像を演じてるみたいなところがあったじゃないですか。それを踏まえたときに、司令官としてシンジに命令することは簡単だったと思うんだけど、そうじゃなくて「必ず生きて帰ってくるのよ」と言って送り出そうとする。でもあの場面ではミサトさん一人しかいないし、銃撃も受けてるから、仮にシンジ君が帰ってこれたとしてもそこには自分はいないだろうと予感している。

やっぱりミサトさんはあのシーンで、シンジ君に周囲の目を気にするのではなく、自分の一つ一つの選択で不格好でも前に進める大人になって欲しかったんだろうと思うんです。シンジ君に「ケリをつけたら、絶対に戻ってくる」って思わせるのに、自分の「性」の部分を見せるしかなかったっていうのが、すごく悲しい話だなと思っていて。「大人のキスよ」ってのも別におねショタ的な意味合いではなくて、まともな大人もほとんどいない終わった世界でそれでもシンジ君に「続き」を期待させる武器を、ミサトさんは「性」しか持っていなかったんだろうなっていう。

一方で『シン・エヴァ』では加持さんとの息子がいて、完全に母親になってるわけじゃないですか。しかも仮にミサトさんが死んじゃったとしても、戻ってきたシンジ君を受け止めてくれるであろう、リツコを筆頭としたヴンダーの仲間がいる。シンジ君を送り出す時に自分以外の仲間がいるということと、自分も母親になったということで、今回のミサトさんはシンジ君を母親として抱きしめられたと思うんですよ。もしかして旧劇の頃からミサトさんがシンジ君との関係で一番やりたかったのはこういう距離感なのかなっていうのが、すごいじんときたんですね。

 あぁ、そうか。自分はあのシーンに関してもっと悲観的な考えをしていたんですよ。ミサトさんって、最初に絵葉書をくれたときから「ここに注目」みたいに胸に矢印を指したりしてますよね。そういうセクシャルなところでシンジを惹きつけようとしているし、その一方で彼の親代わりに自分がなれるだろうかっていうことにもチャレンジしていくストーリーがある。

その結末があのキスシーンで「結局自分は親代わりにはなれなかった」と終わっちゃうことに関して、庵野さんってめちゃめちゃ意地悪だなって思ってたんですが、今のわくさんの話を聞くとちょっと見方が変わりますね。結局セクシャルなところに頼らざるを得なかったっていうのは同じなんですけど、ミサトがそれでもシンジくんをどうにか先に繋げようとしていたっていう風に考えてみたことがなかったので。

「エヴァ」の先にある世界を生きるということ

 それでは最後にひと言ずついただけますか。

 ものすごく冷静に作品を見るといろいろ突っ込みどころはあると思うんですけど、テレビ版込みで二十数年追っかけることができたコンテンツで、しかもそれを幅広い人とインターネットとかSNSがある状態で共有できたって体験自体が貴重だなと。最近はアニメも1クールで終わっちゃうし、いろんなコンテンツがファスト化してる中で、「エヴァ」は奇跡的に二十数年続いてきて、おそらくある程度制作する側も見る側も納得できるところに着地したことに立ち会えたということ自体に非常に意義があるんじゃないかなと。物語の内容以上に、「『エヴァ』の終わりを見届ける」という体験を共有させてくれたっていう意味で『シン・エヴァ』という作品にはすごく価値があったんじゃないかなと思いますね。

 新劇場版を作るにあたっての庵野さんの所信表明は「『エヴァンゲリオン』という映像作品は、様々な願いで作られています」と始まり、そこでは「自分の正直な気分というものをフィルムに定着させたいという願い」が、「エヴァ」を形作るものの第一に掲げられているんです。95年ごろの庵野さんの「気分」は旧劇場版に結実しているし、そこから四半世紀経った庵野さんも、形は違えど今の正直な「気分」を「エヴァ」に落とし込むことに成功したと思います。そこがまずすごく喜ばしい。そして庵野秀明という作家は、自分自身の個人的な部分を描いているだけのはずなのに、それが不思議と、時代と大衆に対する普遍性を持ってしまうんです。つくづく、一緒の時代に生きてくれてありがとうと感じました。

 『シン・エヴァ』で一番「食らった」のってクリエイターだろうなと思うんですよ。今作は庵野さんみたいな人がいてくれて良かったと思わせてくれるのと同時に、現実と虚構がこれ以上ない形で調停された作品でもあるから、フィクション作品をこの25年間作ってきた人が、この先何を作ればいいんだって途方に暮れてしまうような作品でもあると思うんです。

自分も少なからずそういう意味で「食らって」たんですが、新海誠のツイートを見て目が覚めました。彼が『シン・エヴァ』の感想で言っていたのは「果ての果て、遠い場所まで連れていってもらえました」というシンプルなことで。要は、新海さんにとっては『シン・エヴァ』も良い意味で他の様々な映画と変わらないひとつの「旅」であって、その先は自分が作っていくんだってことなんだろうなと。

それまでは正直「この先、なんか面白い作品ってあるのかな」って思っちゃってたんですけど、そういう言葉が出てくる人もいるんだということに勇気づけられたし、自分自身も「僕がこの先を作っていくんだ」って気概を持とうと改めて思いましたね。

 Twitterとかで見る『シン・エヴァ』に対する不満って、ひとつはこれは僕もなんですけど、旧劇場版の戦自の戦闘シーンとか、エヴァンゲリオンが大活躍するような絵をもっと見たかったんだよというものか、もしくはラストシーンが結婚を匂わすものだと解釈する人が多い中で、「じゃあ俺たちも結婚しろっていうのか!」と言うかのだいたいどちらかなんですよ。でも特に後者のほうですけど、もし「エヴァ」じゃなくて『クレヨンしんちゃん』でひろしが同じことを言ったら、たぶん誰も不安には思わないんだろうなと思うんですよね。つまりジャンルとしての「エヴァ」というものがみんなの頭の中にあって、そことのギャップが大きいから不満になるんだろうと。

でも思い返せば「エヴァ」というものに対してファンが求めているものが作られてきたことなんて、テレビ版の最終回や旧劇の頃から一回もなかったわけですよ。だから今回も、そういう不満が出ることも含めて「『エヴァ』らしかったな」って。

庵野さんが人生をかけて作ってきた、この作品自体が言ってみたら60歳とかなわけじゃないですか。そうしてようやく終わったものを一週間で納得し終わるというのがそもそもおかしい気もするし。不満があるにせよ満足したにせよ、「エヴァ」という作品自体は終わっちゃったんだから、今後じっくりと反芻していって、また自分の中のそれぞれの「エヴァ」を終わらせればいいし、僕は僕の中の「エヴァ」を終わらせていこうと思いました。

(2021年3月20日、リモートにて収録)

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