「情報」と「考える」こと

 至極どうでもいい話なのですが、私は数学というものが死ぬ程苦手です。
 どこから出来なくなったのかな、と思い返してみたものの、理由は恐らく「公式が全く覚えられない」なので、xだのyだの二次関数だのと言われてからですね。子供の頃、某青い狸の漫画の教材でつるかめ算を覚えて、お陰様でつるかめ算は完璧だったのに、□がxやyになった瞬間意味不明になりました。恐らく私の数学嫌いはそこから始まっています。つるとかめは何匹いるのか計算をさせてくれよ。しかし四則混合計算とか「この箇所の角度を求めよ」とかは好きだったのでよく分からないと言えばよく分からない。恐らくやり方を理解出来ていたからなんでしょうけど。まあもうどっちもやり方殆ど覚えてない。
 多分私という人間は、「理解出来ないことをとりあえず覚える」ことがすごく苦手です。「これはこういうものだよ」と言われたら「なんで……?」とすぐ聞き返す時代がものすごく長かったです。だって分からない。大人になってやっとそういうものか、と受け入れるようにはなりましたが、受け入れているだけで理解は出来ない。理解出来ないせいで覚えがめちゃくちゃ悪い。そして今でも「何で?」ってめっちゃ聞く。うるさいって怒られる。目の前の便利な箱で何でも調べられるようになって便利。
 HTMLやらCSSやらの勉強をしている時に「何でそれは覚えられるのに数学の公式がひとつも頭に入らないの?」と言われたことがあるのですが、あれは打ったら結果として見えるのと基本が英語だからだというのが大きかったのかもしれない。これを打ったらこうなるのか、を目で見せてくれるものだったので強かったんですよね。数学の公式は覚えても何で答えが合ってるのかが理解出来ないし何でその公式で答えが出るのか意味不明過ぎる。さすがに2+x=5、x=3くらいのことは分かる。分かるけれども。
 恐らくそのせいもあるのかなあと思っているのですが、逆を言えば「理解出来たことは正しいと思い込む」きらいがあります。悪く言えば頭が固い。考え方を変えるには理解したことのロックを外して上書きして編集しないといけないので、その作業にものすごく時間がかかってしまう。違う、と言われた時に「どうして違う」のか、成程な、って納得出来るまで「何で?」が続いて、納得してやっと書き換えが始まるポンコツ。その為の作業に徹底的にああだこうだと議論するのは割と好きなんですけど「お前は圧がすごいから議論は嫌だ」って言われて家族しか付き合ってくれません。ソンナコトナイヨーコワクナイヨー。でもそういえばディベートの授業でも「問題点の指摘の仕方が怖い」って言われたな。コワクナイヨーオトナシイヨー。まだ全然よく分からない頃に討論系の番組見てた影響かな。ジェ○ジャンめっちゃ見てました。もう18年前だって。こわ。
 まあしかし日本人というのは頭が固い国民性なので私も日本人だということなのでしょうね。宇宙人かもしらんけど。

 閑話休題。だから前置きが長いんだってば。

 情報化社会として情報が溢れている現在、時節柄コロナ関連(正確にはSARS-CoV-2だったりCOVID-19の話ですがめんどくさいのでコロナで通します、別に専門的な話する訳じゃないし)の情報は逐次調べるようにはしているのですが、どれもこれも「正解」ではない現在、何を信じるかというのはとても難しい問題だなあと思っています。海外の研究結果とかで公開されているものを自動翻訳かけて読んでみたりもするけど、専門的な話って難しい。読まないよりマシだ、であれこれつまみ食いしてる状態です。論文出してもああでもないこうでもないと議論して取り下げられる世界なので、研究結果が出てもまだまだ「正解」じゃないんだなと思うばかり。
 ところがどっこいテレビでは出典のよく分からない数字やグラフを持ち出してもっともらしく語っている専門家がよく分からない不安を煽るようなことばかりを並べ立てて、所謂世論と言われるものはマスコミに弄り回され、ネットにいると気付かないけれど思っているよりもネット社会に生きていない人々が多い世の中、「誰を信じるか」「何を信じるか」は「自分で調べて」選び取っていかないといけないのだなあと思うことが多くなったというか。ネットでもデマが出回るって結局そういうことなのかな。トイレットペーパー本当に困った。
 私の「何で?」、大人になって(考える体力と気力が削がれて)随分おとなしくなっていたのですが、コロナのお陰で随分と再燃しました。元々前職の時、職場の人々が全くネット(というかパソコンやスマホ)を使えない人たちだったことに少なからず影響されていたのかもしれません。「テレビで言ってた」をそのまま喋るひとたちだったなあ……「何でだろう」を口にするだけで調べないひとたちだったもんな……ということをふと思い出して、「世の中そういう人の方がきっと多いんだよな」ということに気がつきました。実際、テレビでもっともらしく解説されているのを見ていればそれが嘘であったとしても、私も「成程なー」と納得して同じように「テレビで言ってた」になっていた可能性だってあるのだよな、と思って、ちょっとぞっとしました。そういえば一時期口癖のように「誰かが言ってた」って言ってた気がする。Twitterに流れてくる情報だって何も調べず何も考えずに受け止めていたかもしれない。怖い。

 自分の頭で考える、ってめちゃくちゃめんどくさいんですよね。めんどくさい。エネルギーの消費量がハンパじゃない。口を開けてなくても情報がじゃんじゃか入ってくるので、その情報の真偽なんてなーんにも気にせず信じる方がらくちんです。でも必要な情報って、意外とちゃんと調べないと手に入らない。「何で?」が調べたらすぐにわかるようになったからこそ、その「楽」に流されて生きてたんだなあ、と自省。とはいえ、興味のアンテナを持ち続けるのも莫大なエネルギー使いますよね。しんどい。しんどいにかまけて思考能力を落とし過ぎている。情報って本来調べないと出てこないもので、何でも分かりやすく明示されることに慣れ過ぎているんでしょうね。分からなかったら辞書を引け、が、分からないからすぐに出せ、になってる感じ。ちょっと違うか?
 いや本当にめちゃくちゃめんどくさいんですけど、でも、「世の中ってこんなに嘘の情報に溢れているし、それが信じられているし、私も嘘を知らずに信じていることがあるんだ」ということをコロナで思い知りました。かといって何でもかんでも疑ってかかるのは疲労度が増します。そもそも興味がないことをいくら調べたところで興味がないので真偽なんかどうでもいい訳です。調べるにもまず興味を持たないことにはどうにもならない。考える気にもならない。とりあえず疲れない範囲で、自分の生活に関わることから「そういえばこれは何で?」って興味を持つことから始めないといけない。子供の頃当たり前に出来ていたそれが今なかなか出来ないのって、世界は広がっているのに視野が狭くなったのと、普通に生きてて「考えなきゃいけない」ことが増えてしまっているのと、「めんどくさい」を覚えてしまったのと、「分かった気になっている」からなのかなあ。
 そうそう、noteを書こう、と思ったのはこれもひとつの理由で、「書く」となれば自然と「考える」という行動がついてくるので、世の中で話題になっていることに興味を持って考えるようになった今なら書けるんじゃないかな、書こうとすれば考えるんじゃないかな、というのもあったのでした。これは余談です。

 コロナの報道の中身に関してはここでは言及しません。色々と文句たらたら言ってる人間ではあるんですけども。コロナのこと自体に関しては「少しずつ解明されている」だけで、全容が分かるのはまだまだ先。ただ「医療に絶対はない」ので、「こうすれば絶対に大丈夫です」って言う人のことは信用してはいけない、と決めています。私が今コロナ関連で信用している情報も間違えているかもしれませんが、「間違えてましたごめんなさい」や、「状況が変わったので前の情報は一回忘れてください」って言ってくれる人の方が安心出来るなと思ってます。状況や意見は変わっていくもので、そこに頑なになっても仕方ないのかなと。
 そうやって考えると今の政策の方針変更に「手のひら返し」とか「見通しが甘い」とかいう批判するのもどうなのかな……とは思っていますが政治の話もいいや。私にだって政治不信があるのは確かですが、すぐ左とか右の話になるのめんどくさい。まためんどくさいになってる。めんどくさいもんな。どっちが左でどっちが右かも知らんよ私は。どっちかしかないんか。知らん。引っかかったことはちゃんと調べるし法案も官報も読んで考えることはする。選挙も行く。だから手を尽くせばいくらでも水増し出来るTwitterのハッシュタグを勝手に国民の総意にするな。以上。すぐ話が逸れるのは私の悪いところですね。

 自律的に考えて行動しろ、ということに繋がっていくんでしょうけど、そうやって考えるとチ○ちゃんの「ボーっと生きてんじゃねえよ!」ってすごいな、本当にその通りだなと感心します。チ○ちゃんが流行っててもぼーっと生きてるんだな。でもこちとらぼーっと生きてるつもりはないんですよね、だって日々必死に生活してるもの。日々の生活に追われる中で、情報を取捨選択して思考するのって本当に難しい。好きなものだけ見て推しを愛でて生きて難しいことからは目を逸らしたい。
 でも、だから、せめて、とりあえずは。その楽しい「好きなものだけ見て推しを愛でる」時間を脅かすものに関しては、きちんと調べて、考えて、知っておきたいなと思う次第です。

 話がとっちらかってるなあ、と思いながら、今回はこの辺で。

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