[Night Diver]を聴きながら


 私は三浦春馬という男の「にわかファン」です。
 にわか程度です。どちらかといえば佐藤健の方が好きです。ブラッディ・マンデイの時春馬派か健派かって話になりませんでした?私はなりました。でもどっちも好き。どっちも違う良さがある。ブラッディ・マンデイ全体でいうなら圧倒的に成宮派。
 別に全部のドラマや映画を見ている訳じゃあないし、舞台だって観に行ったことがないし。それでもまあ、多分に漏れずキンキーブーツのパフォーマンスに衝撃を受け、母と「春馬の舞台絶対いつか観に行こうね!」という話をするくらいには好きでした。過去形じゃないな。好きです。

 私はまだ、 動いている彼の映像をまともに見ることが出来ずにいます。

 多分、日も悪かった。朝からYoutubeで某式典を見ていて、すごくセンチメンタルな気持ちになっていた日だったので。第一報をいくら見ても嘘だと思った。ぼーっとしながら見ていた音楽番組で城田優が泣いていた。ああ現実なんだなあって、ぼんやり受け入れるしかなかった。
 どうして、何で、というのは考えても仕方がない。亡くなってしまった人とは話せない。その真意を知ることは出来ない。周りが、赤の他人が、いくら憶測しても知りようがない。
 糸が切れる瞬間なんて、その切っ掛けなんて、本当に些細なことなのかもしれなくて。色々と考えましたが、結局のところ「戻ってくる気がなかった」から「戻ってこれなかった」んだろうなということが、彼の決意の固さを物語っている気がして、私はそれ以上「何で」「どうして」を考えるのを止めました。
 ただ、彼が「人を楽しませる仕事」「人を幸せにする仕事」をしているまま、自分の手で「人を悲しませた」ことに関して、私はとても怒っていて。エンターテイメントというものは人を救うことだってあるものだということを、知っているから。なのに私は観れなくなってしまった。悲しくて苦しくて、触れられないものになってしまった。楽しませてくれた作品も、驚かせてくれた作品も、考えさせてくれた作品も。大好きな作品、結構あるのにな。何とか彼の音楽を聴くことは出来たので、歌声を聴きながら、ぼんやりと彼のことを考えています。
 佐藤浩市のコメントが全てじゃないかなあ。あの人のコメントが一番しっくりきました。無理矢理に紡いで自分のファンを安心させるコメントではなく、そしてとりあえず出したコメントでもなく、確かにはっきりとした「彼を知っている人」で「彼を可愛がっていた人」のコメントだなあ、と心底思ったので。
 コロナ禍でなければ、好きに友人と会えるいつもの環境であれば、また何か違ったのかなあ。というのは、考えるだけ無駄なたられば話。

 自分の創作スタンスの関係上、或いは自身の経験上、「人が死ぬ」ということについてはよく考えます。どうして死ぬのか。何故死ぬのか。病気、事故、他殺、自殺、死因不明。一秒後にはなくなっているかもしれない、そういうもの。そういうものだけど、案外しぶといもの。
 人は割と皆、「死にたい」と考えたことがある生き物だと思っています。同義で「殺してくれ」。今の世の中だから、とか関係なく。いつの時代も「死にたい」と考える要因はあると思うので、今の世の中が悪いとかそんなことを言うつもりは毛頭ありません。そもそもからして他の時代を知らん。辛くて死にたい時もあれば、幸せ過ぎて死にたい時もあるよね。
 死にたい、と思っても実行するかどうかっていうのはまた話が別で、「死」っていくら考えても分からない得体の知れない怖いものだから、憧れたり願ったりしても本質として無意識に「怖い」のだと思います。案外頑丈な鎖で「生」という場所にロックされているので、外的要因が「死」を運んでこない限りはなかなか死なない。「死にたい」のエネルギーが蓄積して、蓄積して、内側に向けて爆発するとロックが外れる、というのが私の中のイメージ。一線を超える瞬間。外側に爆発する時はまき散らして減ってくれるけど、内側に爆発したら減ってくれないよね。っていう。

 宗教的な意味での「例外なく地獄落ち」という発想、「誰かが死ぬと悲しい」から「悲しませる奴は地獄に落ちろ」みたいな発想だったのかなあ。生きてる人間の勝手だよなあ。死んだこともないくせに、みたいな話ですよね。
 生きても地獄、死んでも地獄?行き着く先は、誰にも分からない。
 でも「生きてればいいことある」って何だろう。「死ななくてよかった」って何だろう。同じくらい、「あの時死んでおけばよかった」って思うかもしれないことにも目を向けてしまう。死んだら終わり。終わり?終わって欲しいから死ぬのでは?考えていると、死にたい側の気持ちの方が分かってしまうのも、人だからなあ。「死にたくないんじゃー!」って不老不死にしがみつく人の気持ちの方が難しくない?と思うんですが、どうなんでしょう。いや死ぬのが怖いのは分かるんですが。
 まあ今の私は推しがかっこよくて可愛いので生きてて良かったー、って思うことはちょこちょこあります。それは思います。もっと色んな推しが見たいから生きてる。推しは偉大。だから推しは頼むから元気で長生きしてくれ。頼む。推しを苦しめるものがこの世になければいいのに。
 勝手な生き物なので推しの健康と長寿を願って押しつけてますが、逆を言えば「そういうことされたくないなら芸能関係の仕事はするな」とも思っています。だからといって直接的に推しを苦しめる人種は如何なものかと思う。推しを苦しめるな。しんどくなってどうにもならない時はいっそ引退して欲しい。そういう難しいことを考えなくていいので二次元に逃避しがち。死んでも生きてる。二次創作でいくらでも新しい推しに会える。コンテンツがなくなる時は推しが芸能界引退した、みたいなとこある。

 何か急に話がおかしくなったな?

 冒頭に話は戻って。
 彼が「楽しみにしていてください」と笑っていた新曲を聴きながら、彼はこの曲をどう思って歌ったのだろう、と考えるようになりました。知ることは出来ないけれど。
 生き苦しい夜の、繊細な感情が綴られた歌詞。かなりの数の人間が共感出来るところがあるであろうそれを歌う彼の声は、前作の力強く主張の強い歌声とは全く違って決して弱くはないけれど繊細で、引き摺り込むような。
 ああ、やっぱり、パフォーマンスを見たかったな。こんなことになるなら、そう思わせないで欲しかったな。楽しみにしててねって言ったじゃない。うそつき。どうせならいっそ不慮の事故であって欲しかった。どちらだって苦しいことに変わりはないけれど、「仕方ない」と思える箇所がある分きっともう少し楽だった。誰も責められない、誰も悪くない。何があったとしても、最期を選んだのは彼自身だという事実は覆らない。
 私ごときの「にわか」でこうなのに、本当に彼が一番好きだ、ってくらいファンだった人は。彼の周りの人は。悲しみや苦しみは人それぞれだけれど、思うと胸が痛いです。時間はいつか人の心の中に居る彼の存在を希薄にしていくかもしれないけれど、生々しい傷は疼く古傷になって残り続ける。生きていた頃の彼が作品として遺っているから、それを見る度にどうしたって思い出してしまう棘になる。

 ちくちくと突き刺してくる棘を撫でながら、私はまだもう少し、ふとした瞬間に彼のことを考えてしまう生活が続くのでしょう。
 今のところは、彼を許せないまま、私なりの彼を好きだと思う気持ちを大切にしようと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?