愛情≠色情
なぜ結婚したいか、人と付き合いたいか、という質問をした際に思わず絶望することが最近ままある。
勝手に質問しておいて勝手に絶望するなんて、という感じだが、結構なカルチャーショックを受けることが多く、またその考え方が一般論であるらしいことを知り世界との違いに絶望してしまうのだ。
僕は友人の枠を越えたいと思う女性が一人いる。
平たく言えば、将来結婚したいと思う女性が一人いる。
僕はパートナーに性的接触を求めない。
求めたくないし、求められたくもない。
性的な意味を持つ接触を一切したいと思わないし、それが愛情表現のひとつであるという凡そ一般的である意見に全く共感できない。
セックスが愛情表現の一つ、という言葉の気持ち悪さったら無い。
過去4人の女性と交際してきたが、性行為中に満たされた気持ちになったことなんてただの一度もない。
経験してきた上で改めて思うが、セックスなんて作業以外の何物でも無かった。
そんな僕が特定の人間とパートナー関係になりたい理由は、
友人として優しくするには限界があるから、きっとただそれだけである。
僕はすきな人にやさしくしたい。
中学聖日記で黒岩君が、一緒にいて何するの?と尋ねる聖に対して「やさしくしたい」と答えるシーンがあるけれど、本当にその通りだと思う。
大事に思う人にしたいことなんて、最終的にやさしくしたいくらいしかない。
友人の範囲でできうるやさしさと、パートナーだからこそできるやさしさの幅はきっと違う。僕は相手に対し、
いつだって誠実でいるから安心していて
絶対的な帰る居場所でいるから、何事も臆さずトライして
欠点を愛したいと思って一緒にいるから何も卑下しないで
君のすべてを肯定したいから安心してなんでも話して
絶対的な味方でいるから一人だと思わないで
と思いたくて、でもこの感情を友人だと思っている人間から向けられたらかなり重たいと思うのでパートナー関係になりたい。
パートナー関係になる=暗黙の了解としてセックスの独占契約を結ぶ
という式は僕の中では無い。
パートナーならばセックスが当たり前にあるだろう、という恐ろしくも当然の文化に辟易している。
ただ、相容れない彼らの愛情表現の一つがセックスであるというのは理解したい。
それぞれの愛情表現で大事な人を大事にできたらいいね。
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