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祝福と承認

先週もまた、友人知人の結婚報告を見聞きした。白露みかげは、2、3ヶ月に一度はそういった投稿を目にするくらいの年齢である。

私は相手が誰であれ法律上の婚姻関係を持つことを望んでいないが、友人の結婚を祝福したい気持ちはある。そうは言っても、どこか物足りなく感じてしまう。方々から拍手喝采をもらうことが即ち幸せか、と自分に問うと、そうではないと返ってくるのだけど。

私もいつか世間から祝福される日が来るのか?キリスト教的な意味を除いて、考えを巡らせると、結婚と子宝に縁のない人が祝福されるには、起業、開業か受賞くらいではないか。
そんなふうにくすぶっていると、それは蜃気楼のように遠くて、あるかないか分からないものに思えてくる。みんながそちら側から手を振っているのが見える。気が立っていると、平等とか不平等とかいう言葉を持ち出しかねない。

人それぞれでいいと思いたいくせに、家庭がある人がしっかりしてる、落ち着いてる、応援される対象であるという印象は消えなくて、なお後ろめたく感じる。
独身の知り合いを見ていると、本人は結婚しなくてもいいと言いつつ婚活に走ったり、恋人がいないと焦る人が少なくないように見える。その人たちと向いている方向は違っても、立っている場所は手が触れるほど近くに居たりして。

この祝福という言葉は、注目とか自尊心、あるいは社会からの承認とも言い換えられるかもしれない。
周りの視線、それに自分自身からの偏見なんか気にせず、自分で自分を幸せにしてあげられる日が、いつかきっと、来るといい。

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