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映画「Shirley シャーリイ」公開の前に。「わたしは作家よ」と、シャーリイ・ジャクスンは言った。

シャーリイ・ジャクスンの短編集「なんでもない一日」(東京創元社)には、小説だけでなく、著者自身の体験をもとに書かれたエッセイも収録されている。
そのなかでも、とくに印象的なもの三篇について、書いてみる。

まず、「序文 思い出せること」でシャーリイ・ジャクスンは、家族とともにカリフォルニアから東部へ引っ越した、十六歳の頃のことを書いている。
それは「とりわけ苦しい時期」であり、彼女は新しい学校、新しい風習になじもうと努力していた。
その、苦しかった出来事のひとつ。

たとえばある日、転校先のハイスクールで化学の授業が中断されたのは、わたしに初めての雪を見せるためだった。それまで実在するとも思わなかったものに対し、わたしがどういう反応を示すかと、クラス全員が外へ出て楽しげに観察したものだ。

「ほらほら、あんた雪をはじめて見るんでしょ。わざわざ先生が授業を中断してくれたんだから、何かおもしろいこと言ってみなさいよ」・・・というクラスメートたちからの無言の期待と圧力を感じている十代のシャーリイ・ジャクスン。そのときのことを想像すると、なんだかこちらまで息苦しくなってくる。
このエッセイで彼女は、はじめて小説を書いたときのことを記している。
なぜ書き始めたのか、そのきっかけについては、当時読んでいたものに不満を抱いたことであった。読むにふさわしい本がないなら自分が書いてやろう、ということである。
ということで彼女は推理小説を書き、両親と弟の前で、読んでみせた。しかし、誰も彼女の書いたものにはじめからたいした関心を示さず、反応は冷淡だった。
そこでシャーリイ・ジャクスンは、二度と小説なんか書くものか、と思った。彼女はこの決意をする前に、結婚もしないし子供も産むもんか、と思っていた。そして、自分は私立探偵になる運命だ、などと考えていた。

さて、しかし、その「決意」は翻される。
「車のせいかも」というエッセイの中では、彼女は結婚し、娘も、息子もいる。探偵には、なっていない。
そして、そうそう、一番大事なのは、作家になっている、ということである。
あるときシャーリイ・ジャクスンは夫の教え子から、作家ではなく画家だと間違えられる。これに対して彼女は、「たしか作家のはずよ」とひきつった顔で答える。
その晩、彼女は夫に、「わたしは作家のはずよね」と言う。そんな彼女に夫は、「夕飯はまだ?」と聞く。台所で、わたしは作家よ、と自分に言い聞かせる、シャーリイ・ジャクスン。
彼女は家の中からぼんやりと車を見ていて、急に、それを乗り回したくなり、勝手口から出る。
どこ行くの?とたずねる娘に対する答えが、いい。

「いつか母さんの消息、聞くことがあるかもね。シンガポールでバーを経営してるかもしれないし、アルジェの街角で新聞を売ってるかもしれない。でなきゃ、今から何年も先にちっちゃなおばあさんがあんたに近づいてきて、顔をのぞきこんで、母さんのこと覚えてる?って訊くかもしれない。それが母さんなの」

楽しんできてね、と言う娘と別れて町の外へ向かう。
シャーリイ・ジャクスンの、プチ家出。
コロニアル風のホテルを見つけ、偽名で宿泊、夕食をとり、次の日目覚めるとワッフルとソーセージの朝食を食べる。
ここらへんは、読んでいてちょっと楽しい。
ホテルをチェックアウトした後、売りに出されている家を見る。買うつもりはないが、頭にあるのは、作家として、一人きりで執筆に専念できる部屋を持てたらいいな、ということ。
家に帰ると、家族は彼女を普通に出迎える。飼い猫がどうの、シャツがどうの、と言う夫や子供たち。
そういえば、長編小説「処刑人」には、大学で鬱屈した日々を送る主人公のナタリーが寮を出て、どこへ行くともなく、外の世界をさまよう箇所があるが、娘に告げたうえでのプチ家出をするシャーリイ・ジャクスンと、なんとなく重ね合わせたくなってしまう。

そして、「エピローグ 名声」。
はじめての小説が出版される二日前、家に、新聞社から電話がかかってくる。「ノース・ヴィレッジだより」というコラムを書いている女性からで、「何か話題を持っていそうな町の人に電話をかけている」と言う。
ここでシャーリイ・ジャクスンは、自分の本の出版のことを口にするのだが、相手のほうは、「地元のちょっとしたニュース」を聞きたがる。
おかしいのは、シャーリイ・ジャクスンの本のタイトル「塀のむこうへの道」(「壁の向こうへ続く道」のタイトルで文遊社より邦訳が出ている)を、住んでいる場所のことだと思って相手がまじめにメモするところ。
このエッセイは、新聞に載ったコラム記事で終わっている。そこに、新人作家、シャーリイ・ジャクスンの名前や話題は?というと・・・。

以前、シャーリイ・ジャクスンが出産のため病院を訪れ、職業を聞かれたときのエピソードを書いた。
少し内容が重複するが、もう一度書く。
シャーリイ・ジャクスンは、自分が受けた不愉快な扱い、そしてそれをした人たちについて、怒りをあらわにし、声高に非難をする、という形をとっていない。
そして、そういう目にあった自分のことさえも、突き放したような視線で見て書いている。
自分は作家であり料理やファスナーの修理をする人間ではない、と、はっきり書いてはいるが、それは、大声で叫んでいる、というより、内側に怒りを秘めながらも静かに、そして冷たく、つぶやいているようだ。
しかし、それはあくまでも、「表面はそのように見える」だけのこと。
シャーリイ・ジャクスンは声高に叫んでいないよう見えて、実は、「わたしは作家よ」というこちらの声を聞こうとしない人々の愚かしさを、鋭くあぶり出している。
もっとも、彼女の声を聞こうともしない人たちならこのエッセイを読んでも、自分が、才能ある作家であり、鋭い目を持つ魔女でもあるシャーリイ・ジャクスンから鉄槌を食らわされている、ということさえ、気づかないかもしれないけれど・・・。

七月五日に、シャーリイ・ジャクスンを主人公にした映画が公開される。大部分はフィクション、とのことであるが、見に行くことは、決めている。
映画公開前に、と思って、大好きな短編集を読み返してみた。
上記の三篇以外の作品も、すべて粒ぞろいの、すぐれたものばかりである。

















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