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「魔女」が書いた、少女小説。シャーリイ・ジャクスンの「処刑人」。

この話は、ある家族の日曜日の朝食風景から幕が開ける。
そして読者は、小説を読みはじめてそうそう、この家庭が抱えている問題を知らされる。

主人公は、十七歳の少女、ナタリー・ウェイト。
今日は、作家である父親の友人たちがやってくることになっており、彼女は、パーティの支度をする母親の手伝いをする。
女子大の寮へ入ることが決まっているナタリーは、これからはじまる新生活への不安を胸に抱きながら、顔を出したくもないパーティの手伝いをしなくてはならないことにいらいらしている。
そのあいだずっと、母親は愚痴を言っている。結婚生活、そして高圧的な、夫への不満。彼女は、娘に依存しているのだ。

ナタリーの抱える根本的な不安や悩みの正体。それについてはっきりと書くことはむずかしいが、息苦しい家庭で育ち、自己肯定感の低い十代の少女が抱えている何やらわけのわからないものについては、じゅうぶん、想像できるだろう。

もちろん、そういったものを抱えたまま居場所を変えても、問題は解決しない。ナタリー自身、期待に胸をふくらませていたわけではないが、入った女子寮は、家とはまた別の形の、牢獄であった。

まず、新入生の、女の子たちの群れ。
彼女たちはお互いに値踏みしあい、そのうち自然に、それぞれが「同類」とくっつきあいグループをつくる。そして次には、そのグループ同士で反目しあったりする。
しかし、その関係にも変化が起こる。仲間はずれにされていた女の子が、ある日突然、いつのまにやら派手な女の子たちのグループに入っていて、得意顔をしていたりするのだ。
この、女の子たちのあいだに漂う、もやもやした空気、重いエネルギー。
それが、くっつきあったりぶつかりあったり離れたり、そうしているうちに思いがけない形ができあがったりする。
ナタリーは、その人間関係を目の当たりにするたびに、疎外感を覚える。
彼女のこの気持ちについては、「ああ、わかる」と思う人は多いはずだ。
この小説が出版されたのは1951年、そして書かれているのはアメリカの女子大でのことなのだが、こういったことは、いつの時代でもどこの国でも、みんな、経験しているはずなのだ。

ナタリーは、上級生に勝手に部屋に入り込まれベッドカバーを馬鹿にされたり、精神不安定な教師の妻にべったりと頼られたりする。
ときおり届く父親からの手紙に書かれているのは、小難しいことばかり。
このような生活の中で彼女はどんどん疲弊していき、精神的に追い詰められてゆく。

「処刑人」で特徴的なのは、ナタリーの「外側」で起きるさまざまな出来事だけでなく、その出来事の合間、彼女の内面で起こること・・・目の前の現実からふっと意識が離れたり、心を一瞬かすめる奇妙な夢などについての、詳細な描写だ。

たとえばナタリーは、今自分の目の前の現実と関係なく、突然、自分が刑事に尋問されている、という妄想に入る。
「きみがそうやって頑固に口をつぐんでいるせいで、とり調べがいっこうに進まないんだよ」という刑事のセリフがなんの前振りもなく唐突に挿入され、読み手もここで一瞬にして、ナタリーと一緒に別世界へと飛ぶ。そしてこの刑事の声は、このあともしつこく、しつこく、何度も聞こえてくるのだ。

また、彼女はたびたび、ナタリー・ウェイトというのは本当に自分の名前なのだろうか、と考える。まるで、自分という存在に確信を持つことができず、自分から遊離しているかのように。
そして、自分の人生は誰かの一瞬の妄想、夢ではないか、という考えにもとらわれる。もしかして自分は、どこかの店の店員が思い描いている女子大生の人生の中の主人公なのかも?もしくは、病院に閉じ込められている?娼婦?十二人の子供を産んだ主婦かもしれないし、男かもしれない。
こういった考えを、現実逃避、として見ることもできるだろう。なぜなら、苦しいことで満ちている自分の人生、これはすべて夢なのだ、ととらえることで、ちょっと気持ちが楽になるからだ。
でも、と私は思う。
自分の人生は誰かの妄想でしかないのかも、という考え、これが、間違っている、という証拠も、ないではないか。

ナタリーは、久しぶりに実家へ帰る。
しかし、少しも心は癒されない。癒されるどころか、さらに不安定になってゆく。
大学に帰ってきた彼女の精神状態は、限界に達しそうになっている。彼女は、寮を抜け出し、町へと出る。
それも一人ではなく、「トニー」という名の友人と一緒なのだが、どうやら彼女は、ナタリーがつくりあげた想像上の友人のようだ。
それから、ナタリーと、この「お友達」との、小さな逃避行が展開される。
どこへ行こうとしているのか、何をしようとしているのかもわからないまま、「二人」は、町をさまよう。
いろいろな店がごちゃごちゃと立ち並ぶ中を歩きまわり、大学からどんどん離れてゆく。
「二人」は、そこかしこに、タロットカードのシンボルに相当するものを見つけては、それをいちいち、口にする。
それは意味のないお遊び、ゲームのようであるが、同時に、自分を導いてくれるものをさがしているようにも見える。
どうということもない田舎町の描写が続いているのに、この「二人」が町を彷徨する長いシーンは、ふしぎの国のアリスの冒険のようでもあり、地獄めぐりを見せられているようでもある。

ナタリーとトニーは、カフェテリアに入る。
ナタリーが安っぽいカフェテリアで安っぽい食事をしているところは、読んでいて、なんだかほっとする。
ナタリー、ずいぶんたくさん注文するなあ(パイを三種類とシナモンロール!)、でも食欲があるなら彼女はきっと大丈夫・・・なんて思ってしまう。
現実の存在じゃなくて、小説の、登場人物なのに。

この、行き先のわからない一夜の彷徨が、ナタリーににどういった心境の変化をもたらしたのかは、はっきりとはわからない。
結末に関してはさまざまな受け取り方もできるが、「処刑人」は、「魔女」と呼ばれた作家の書いた、すぐれた少女小説であることは間違いない。
けっして「明るい」内容ではないにも関わらず、読むことによって、ある種のカタルシスをもたらしてくれる小説である、と思っている。












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