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アンネマリー・シュヴァルツェンバッハがのこしたもの「雨に打たれて」

アンネマリー・シュバルツェンバッハは、1908年、スイスに生まれた作家、ジャーナリスト、写真家である。
彼女のことをはじめて知ったのは、山崎まどかさんがきっかけであった。コートの襟を立て、車の運転席に座っているアンネマリーの横顔の写真のツイートを見て、「この人の書いたものを読んでみたい!」と、思った。

この時点では、まだ、アンネマリー・シュヴァルツェンバッハの文章を、まとまった形で読むことはできなかった。
平凡社ライブラリーの「古典BL小説集」に、彼女の作品が収録されていると知って見てみたが、抄訳であって、完全な形ではなかった。(もちろん、彼女の作品がアンソロジーに収録されている、というだけでもうれしかったが)

アンネマリーに関する資料で、何かないだろうか、とさがしていたところ、カーソン・マッカラーズが、一時期彼女と交流を持っていた、ということを知った。
私は、アンネマリーに関して記されている箇所を読みたいがために、マッカラーズの伝記「孤独な狩人 カーソン・マッカラーズ伝」(国書刊行会)を借りて、読んでみた。

それによると、五人の子供の中の三番目だったアンヌマリーは、兄が病弱だったため、両親からは、「小さな男の子」のように見られており、母親は、彼女に男の子のような服を着せていたという。しかし、そのアンネマリー自身も病弱で、母親は彼女をかなり甘やかして育てたという。

「アンネマリーは、両親が自分に与えていた男性のイメージを喜び、それを保持しようと出来る限りの努力をします。また、求婚者にとっては美しく女性的魅力を放っていることを自覚しており、そのことに満足していました」

アンネマリーの両親は大富豪で、また、宮殿のように豪華な祖父母の家には、著名人が頻繁に訪れていたという。

「子供の頃から彼女はあらゆる人に注目されました。画家は彼女の絵を描きたがり、写真家は彼女の写真を撮りたがりました。(略)老いも若きもこぞって彼女を喜ばせようとあらゆる努力をしたのです。チューリヒの私立校、フェタン校では、彼女は好きな科目である歴史、ドイツ語、音楽しか履修しませんでした。姉の話では、『アンネマリーは自分のストッキングの繕いさえせずにすんだのです。友人がやってくれたからです。』(略)要するに、アンネマリーと接触したすべての人が彼女の足元にひれ伏したのです」

アンネマリーは、「ヨーロッパ中で女性からの求愛の対象」であり、そのため、「彼女は常に人々からのがれて個を守り、自分の幸福と安定感を維持しなければならなかった」という。

カーソン・マッカラーズは、アンネマリーと会って語っているうちに、「両者の生活様式や文化的背景は大きく違っていても、その中で味わう内面的緊張とその対処法においては似ている」とわかった。
子供の頃、アンネマリーは、心の苦しみを和らげるため物語を書いたり、常に葛藤を感じていた母親と顔をあわさないように、なるべく家にいないようにもしたという。

アンネマリー自身は女性を愛したが、27歳のときにフランス人の外交官と結婚する。彼は男性を愛していたので、お互いに割り切ったうえでの結婚であった。

1930年、アンネマリーは、トーマス・マンの娘エリカと息子のクラウスに出会い、交流を深める。マン家の人々は反ナチスの態度をとっておりアンネマリーも彼らに影響を受ける。しかし、アンネマリーの両親は親ナチス派だったため、彼らとの交流を猛反対され、そのことが彼女を苦しめることになる。

彼女は世界を、それも、おもに中近東を旅して、執筆活動をするが、1942年に、自転車での事故が原因で亡くなっている。

「雨に打たれて」(書誌侃侃房)は、旅行作家としてのアンネマリーの作品をまとめた、短編集である。

ここにおさめられている小説には、異国の地に、さまざまな理由で集まってきたさまざまな人たちの姿がある。
兄がナチに連行されたためドイツから逃げてきたユダヤ人の運転手。「ヨーロッパにはうんざり。オリエントにいれば、なんでもすてきに思える」という意味のことを無邪気に話すイタリア人。メッカに巡礼したいがためにムスリムに改宗し、使用人のベドウィン人と結婚したマダム。出版社との契約で「旅行作家」としてペルシアへやってきたが、何も書こうとせず、どんちゃん騒ぎにうつつを抜かす男爵夫人。

しかし、アンネマリーはそれらの人々を非難するでもなく、冷笑するでもなく、滑稽に戯画化するでもなく、ただ、淡々と描いている。

「女ひとり」という短編で、「私」は男爵夫人から、家から手紙が届いたらうれしいか、とたずねられ、答える。

「いいえ、うれしくはないですね。たいてい不愉快になります。郷愁を覚えてしまうので」

このセリフは、現実のアンネマリーの身の上と当然、重なるわけだが、感情が前面に押し出されていないため、よけいに胸に迫ってくる。

また、「輝かしきヨーロッパ」では、ヨーロッパでの思い出が、登場人物たちの脳裏を、ふっとよぎる場面がある。

「私たちはザルツブルグのことを思った。コンサートを聴きにいったことがある。ブルーノ・ヴァルターが指揮していた。それからおだやかに日を浴びるミラベル庭園、後ろ足立ちの馬の像がある馬洗いの泉。(略)イタリアのように晴れ晴れした空の下に点在する涼やかな山間の湖。風が吹き抜ける背の高い草むら。ホーエンザルツブルグ城から少年たちが大聖堂広場に向かって『イェーダーマン、イェーダーマン』と叫ぶ。」

まるで、映画を見ているかのような美しさだ。
アンネマリーにもこのように、遠く離れた地で、ヨーロッパの記憶が、なつかしさだけでなく、苦々しさとともによみがえることがあっただろう。

「雨に打たれて」の訳者である酒寄進一氏の解説によると、「反ナチ的要素を含むアンネマリーの未発表原稿の多くが死後、母親の手で暖炉にくべられてしまった」とのことだ。
非常に残念なことだが、彼女がのこした文章や写真はすべて失われてはいない。
「雨に打たれて」が刊行されたのは2022年。これから、アンネマリー・シュバルツェンバッハのことは、もっと多くの人に知られていくことになるだろう。



































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