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ナボコフの小説を、何度も読み返したこと。

ナボコフの「ロリータ」は本当に奇妙な小説だ。
あらすじを説明せよ、と言われても、この作品に関して「うまく説明する」など、そんなことは不可能だ。
アメリカ大陸横断のロード・ノヴェル、またはコミック・ノヴェル、それから推理小説としても読むこともできるわけだが、「ロリータ」がどんな小説なのかを知るには、ただ、読んで、その文章の織りなす世界に入っていくしかない。
そして、とにかく、細部まで丁寧に読むこと。

去年の11月頃から年末にかけて私は、「ロリータ」だけを読んでいた。続けて4、5回ほど読んだだろうか?
すでに以前に読んでいたのだが、今度は丁寧に読んでみよう、と思ったのがはじまりだった。
その結果、何度も読み返すことになってしまった、というわけである。

私は文庫版の表紙がどうも気に入らないため、海外版「ロリータ」の表紙をコピーしたものをカバーにつけ、さらにその上からトレーシングペーパーでカバーをするというヘンテコなことをやっているのだが、今回、再読につぐ再読のおかげで本のほうも、お手製のカバーのほうも、ちょっとくたびれた感じになってしまった。(この、くたびれた感じがまたいいのだけど)

私は本を読んでいるとき、「ここ!」、と思うところがあるとその部分に鉛筆で印をつけ、ページの角を折り曲げる。
さすがにそういったことをするのがためらわれる本もあるが、文庫本となると、遠慮なくどんどん印をつけ、どんどんページを折り曲げる。
その結果、新潮文庫の「ロリータ」の、ほとんどのページは鉛筆で印がつけられ、そしてあちこち折り曲げられることになった。
どのページをめくっても、「ここ!」という文章を発見してしまうのだから、しかたがない。

ロリータの学校の、同級生の名簿に載っている名前がただずらずらと羅列されているところ。
ロリータがけばけばしい映画雑誌を読んでいるところ、鼻をほじっているところ、パイにアイスクリームをかけてすごいはやさで食べてしまうところ。
ハンバートがロリータに、「お前のお母さんは亡くなったんだ」と告げたあとで彼女に買ってやったもの。その、買い物リスト。漫画やキャンディ、生理用ナプキン、コーラ、マニキュアセット、本物のトパーズの指輪(この指輪はずっとあとでまた登場する)・・・白いローラースケート、チューインガム・・・このリストの内容を読んでいるだけでなぜ、こんなに心躍るのか。

はじめて読んだのは中学生、そして年月を経て大人になってからまた手にとったのだが、2回とも、冗長だと思われるようなところをすっ飛ばしていた。
そのため物語の後半、ハンバートがロリータに、ある人物の名前を言うよう問い詰め彼女が白状する場面で、「細心なる読者ならとうの昔にご明察の名前を口にしたのだ」という文を読んだときは、「え?誰?全然わかんないんですけど」と思ってしまった。
「細心な読者」として丁寧に読んでいないのだから、わからなくて当然だろう。

「ロリータ」のあちらこちらに散りばめられているものを見ようともせず、先を急いて通りすぎてしまってはいけない。この本を読むときは、探偵のように読まなくてはいけないのだ。

ジョン・レイ・ジュニア博士なる人物による「序文」も、私はめんどうなのでいいかげんに読んでいた。そのせいで、大事なことを知らないまま本文に入ってしまった。もし、読んでいたとしても、その途中で忘れてしまった可能性もあるが。

私は、キューブリック、エイドリアン・ラインによって映画化された「ロリータ」のどちらも見ていないのだが、そもそもこの小説の映像化は不可能なのではないか。
この小説のことを知るには、先にも述べたように、ただ、読んで、その文章の織りなす世界に入っていき、細部まで丁寧に読むしかない。

映像表現のような視覚に直接訴えかけてくるようなものに対して、小説というジャンルは弱い、という考えを、「ロリータ」は見事に覆してくれる。
今回、この小説を何度も読むことによって、言葉でしか絶対に創り出せない世界があるということを、あらためて理解することができた。

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