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『キングオブコントの会 2023』感想

はじめに

おそらくキングオブコントという大会の価値を上げている最大の要因であろうこの番組。今回もとてもそれが地上波で流れているとは思えないくらい、むしろこれらを地上波でできることを最大限に用い、それで出来上がったものを流すことで、「地上波ではできない」ということを標榜するコンテンツ(『大脱出』は除く)なんかよりかよっぽどラディカルで、かつ良質なコントが作られていました。全作超面白い。あまりの面白さに興奮し、この記事を作ってみました。僕が特にオモシロイと思ったコントに絞って感想を書きます。

「自動車教習所」

開幕から、全員が欠けてはいけない素晴らしいコント。初めは「自動車教習所」という題材で、バイきんぐ小峠を教習所の教官の役で起用するというチャレンジングな姿勢にただならぬものを感じたが、その予感に応えるように高くそびえ立ったハードルを飛び越える傑作であった。かまいたちがM-1で見せた漫才のフォーマットが上手くコントに落とし込まれ、山内の論理立てて屁理屈(山内が言ってることは正論などではなく、あくまで屁理屈でなくてはならない)そこに正反対の小峠の感情的な過激なツッコミがぶつかり、うまく組み合ってスウィングしている。個人的にはかまいたち、バイきんぐという二組のコンビに対して、一組はテレビでの振る舞いに対して(共演相手である千鳥よりも何枚も落ちる)、もう一組はネタに関して(とある設定に激情的なツッコミを行うというフォーマットは変化していないが、優勝ネタにあった「パナマ」「8号車の鍵」「エアバッグ連続玉突き事件」などのその設定(世界)をふくらませる細部が欠けているためどこか見切り発車で単調なトーンを前述したツッコミで乗り切る、実際にツッコミのボキャブラリーの方でなんとかオリジナリティや面白さを担保している様に見える)食傷気味であったのだが、今回のコントではそれぞれの当初の持ち味のの正統進化が見れたような気がした。

「サスペンスドラマ」

お笑い芸人は自分の視線でもって、それを受ける対象を異化することで持ってその既成の意味を破壊するものである(芸人がお笑い論を語るときに口にする、というよりはお笑いを見る者ではなく、行うものであるためにそれしか口にすることができないテクニックに関する指摘などではなく(そのようなものはマジックの種のように不変であり、演繹的にどのようなコントにもそれを見つけられる事ができるもので、それを発見し「それがある」ということ以上のことがよっぽどその所作に深さがない限り言えない)、その視線、見方を我々は評価しなければならないと考えている)が、ロバート秋山が見つめる対象は、その意味すらほとんどないような、人々誰もが目にするが、気に求めていない、そして陳腐なものであることが多い。「地方CMソング」「箸袋に書かれている「おてもと」の筆字」「長寿番組の内輪ノリ」「地元のコミュニティFM」、そして今回は「サスペンスドラマ特有の終わりぎわコメディ」。
個人的には、その陳腐さを引き立たせるためのフリとなる鬱陶しさを出させるくだり(『兄弟CMソングライター』ならばCMソングを歌うネタバラシ前の兄弟の仲良しなノリなど)が、意図的なものだとしてもそれを超えて本当に鬱陶しく鼻につくのか、それとも「ここに気がついた」という自分の視線の誇示がネタを通して透けて見えてしまうのか、あまりロバート、秋山竜次の生み出す笑いがあまり好きではないのだが(友近にも似たような、嫌味な感じを覚える)、キングオブコントの会で行われるコントはそのある種の嫌悪感なくすんなり見える、それはユニットコントだからこそだろう。特に大きな発見だったのは、普段ロバートの笑いにおけるツッコミを行う役柄である山本博出ない人物がツッコミを行うと、こんなにも印象が変わって見えるのかということ。それは方々で指摘されている通りの山本博の持つ唯一無二のツッコミスタイル(唯一無二すぎて、キングオブコントの会のような普段の組み合わせをシャッフルして行うコントでは使いづらいだろう。だってどれもロバートのコントになってしまうんだもの)ロバートの笑いを作り上げる一番重要な核は山本なのかも。

「記者会見」

ニューヨーク嶋佐のプレイヤーとしての素晴らしさ(ここでのプレイヤーはアクターではない、あくまでコントに必要な演技力ーそれはコントの背景として使われるハリボテのように、本物を模しているが、本物になりきれずどこか偽物っぽさを醸し出すことが必要である。それはアクターのように本物へと限りなく近づいていくこととは乖離している。その意味で、セットや出演者(必ずアクターが入っている)、そしてそれらを映し出すカメラに至るまで偽物っぽさを排除して、それらをも破壊する笑いを生み出すこともなくその環境で遊んでいるように見えるNHKの『LIFE!~人生に捧げるコント~』をわたしは評価していない)、どのコントにおいてもその役になりきれてしまうし、その役から降りる(素に戻る)ことがない。その能力はもっと評価されて然るべきだと思う。
大竹一樹の珍しい激しい演技もこのコントの笑いどころをさらに引き出している(絶対にあの役は今回の出演者の中でコントを飛び越えて現実的に、普段彼が出演するバラエティなどでの振る舞い、年齢など体力などから、あのキレ方を行えるはずがないように見える、大竹が行わなければならなかったと思う。たぶん他の出演者がやっても成り立つだろうが前述の理由からここまでの意外性はない)。そしてとあるハプニングが起きたときの、そのハプニングを引き起こしながら最もそれに巻き込まれた大竹一樹とそのほかの出演者のとっさの対応力それ更に笑いに消化する姿に、芸人としての凄みを見た。ショー・マスト・ゴー・オンの精神。
あと争いの中で一言も発さずに嶋佐演じるプロボクサーを押さえつけるハナコ岡部大の演じる役、こういう言葉を使うのは良くないかもしれませんが、ちょっと知的障害者っぽくも見えたんですけどどうですかね、だからどうだということもないし、絶対そんなつもり無いでしょうけど。最近ドランクドラゴン塚地が『梅切らぬバカ』という映画で母親に介護される自閉症の人間の役を演じてましたが、岡部もそれできるんじゃないかって思いました。

「質屋」シソンヌVer.

後日談とも言うべき短さだが、まさかの前のコントの世界を引き継ぐという、この番組でそんなことが行われるとは思わなかったので少しびっくりした。もしかしたら、コント師がやるライブのように、前のコントに出てきたキャラクターが再登場するパターンはあるのか。別になくてもいいけど。ないほうがいいけど。それも先程のバカバカしさとは別の切り口から笑いを生み出していて、本当にあのボクサーと父親は戦うことになったのかという想像も膨らんでたのしい。

「質屋」ハナコVer.

あの番組の練習台に質屋を使うというありそうでなかった発想が、そんなことを一般的な家族がしているという奇特さも相まっていい。

「誕生日パーティー」

現実に住む普通の人間が、異常な世界に巻き込まれてしまう、というのはコントの定石である。ただこのコントは、その異常な世界が極めて現実的な―その異常性が現実をへどろみたいになるまで煮詰めて出来上がった―ものであるという倒錯した点で特異だ。ここは対象を(よくも悪くも)バチンと荒く大胆に斬る視線を持つニューヨークだからこそであろう。
それにしてもこのコントも、この人以外にこの役を演じれるのはいないだろうなというくらい皆の役へのハマり具合がすごかった。ビスケットブラザーズきん演じる売れてない芸人の凄まじいリアルさ。

「質屋」ロバート秋山Ver.

単純に前述した彼の視点で掬われたものをぶつけたものだと思うが、その無理矢理感がなんでわざわざ試食のウインナーを買い取らせようとするのかという部分から感ぜられる狂気も感じられて、優しい口調からの「なんだ貴様」、ウインナーを指し「これロレックスですよ」「これオメガ」という台詞もそれを助長する。

「運動機能操作センター」

松本人志のコントである。どこをどう見ても、どう切り取っても。そもそも第一回の「おめでとう」「管理人」の時点で『松本人志のコント MHK』からあんなにブランクがあったのにも関わらず全く劣化していなかった(逆に言えば全く進化もしていなかった)状態の「松本人志のコント」が現れたことに驚いたのだけれど。その次の『落ちる』でもその考えは変わることはなく全く同じ感想を持った。今回のコントでも同じように…と途中まで思ったが、少し興味深い変化が見られた。
コントの構造としては2001年にフジテレビで放送され、視聴率の低さから、松本人志が一時テレビでのコントから明確に離れるきっかけとなったと言われる『ダウンタウンのものごっつええ感じスペシャル』における新作コントとして発表された『野生の王国(https://youtu.be/8vSFWA2TS9Q)』と同一である(松本人志がテレビコントを諦めるきっかけともなったこの番組で披露された発想を、時と様々な道を経てコントに帰ってきた松本人志が変奏するという時点でそれが新しいものでなくても少し胸に熱くなるものがあるが)。そのコントの構造に工場にて働く人間という決して高いとはいえない社会階級に属する人々がそこはかとなく身体から醸し出す雰囲気(また彼らが長年やっているはずの操作についてあまり詳しく知らず、知ろうともしない、深く捉えていないというところがなんかリアル)が重ね合わさることで『野生の王国』とは違った様相を見せているが。もっとも驚いた差異、変化は、操作に失敗した松本と日村の二人にタライが落とされるという展開である。以前の松本人志ならこのような落ちはつけずに、日村に対する冷たい松本人志の眼差しのショットで終わっただろう。NHKで放映された『笑いの正体』で「カモシカのような足」ではなく「カモシカの足のような足」が正しいだろう、というような言葉への違和感が自身の笑いのルーツだと明かしていたように(単純な話術やレトリックなどではなく、発想も言葉の内に入るであろう)、松本人志がネタ以外のバラエティ企画ならまだしも、コントにおいて、破壊の対象として身体(=ドタバタ)、また社会構造(=時事ネタ)を選ぶことはあまりなかったように思える(『おやっさん!』のように破壊するとしてもその暴力性を極めて上げるなど既存のパターンからは逸した形でそれを行っている)。とりわけ自身の身体を対象にすることは、『夢で逢えたら』や『ごっつええ感じ』の初期におけるおそらく松本人志作ではないであろうベタなコント(たぶん)などを除けば(そのベタも『夢で逢えたら』内でウッチャンナンチャンとともにやっていたような「タキシーズ」のようにあえてそのベタさをバカにし、破壊するという意図の上でやっていたと思う)、扮装というものも破壊として含めればあると言えるかもしれないが、それが前景化することはあまりなかっただろう。そのような松本人志のコントに、その身体の破壊の試みの際の常套手段である金ダライが落ちてきた意味を、彼を追ってきた人間は考えるべきであろう。
それ以外にも、レバーが折れたり壊れた部分から勢いよく噴射された煙を浴びるなどの視覚に訴えかける動くことに関する笑い(それらの動きとリンクする映像も『野生の王国』ではライオンの捕食というただの動物の映像だったのが、スポーツのハプニング映像)が、前述したあえてそれを破壊するために行うというような衒いもなく今回のコントには頻発する。これは松本人志が笑いを作る上であえて避けてきたがゆえに未到達であったフェーズに進み始めたことの証左なのかもしれない。

「神対応」

個人的にはさらばのコントはとある設定や発想を第一としていて、それらはドリフのもしもシリーズみたいに文章として書いても面白いくらい綿密に完成されていて、そこから作り上げられた世界やそこで起きる出来事の展開に関してもそれらに忠実であり、そこから逸脱することがない。だからこそ、私がコントを見るときに欲しがる「広さ」とでも言うべきもの、しっかりその舞台上に見えるもの以外のもの(このキャラクターがどのような人生を歩んでこのような状態に至っているのかとか)を想像させ、見えるようにさせることもないのであまり好みではない。彼らが小道具やセットをなしにしたコントができるのだろうかと想像する、別に全くする必要がないし、できなくてもいいんだけれど、どんなコントをするんだろうと、興味がある。
構造としてはキングオブコントで披露した「居酒屋」の発想の変奏であるが、東京03角田らの演技や豪華なセットが、そのせいで狭く閉鎖しがちなさらばのコントの世界を拡充させている。

「老舗」

老舗の大判焼き屋がキャバクラのやり方で運営されているというコント。ぼくはキャバクラに行ったことがなく、その事情を知らないのので、コスプレデーとかキャバクラについて学ぶところが多く、勉強になった。あと、ハナコ岡部の女役はめっちゃリアルな20代女性に見えて、不覚にも可愛いと思ってしまった。あと、やんわりと痴呆の気を感じさせる大竹の老婆を登場させるのもブラックさを感じて良かった。

「進路面談」

前言撤回。その場にいるという存在感だけでなく、(あくまでコントにおいて)役を演じるということに関しても、ライス関町は秀でている。しかし田所のする演技が、関町とは違い悪い意味であまりにもコントに見えすぎてしまって、自分たちができるコントの幅を狭めてしまっているような気がする。

「亀教」

前回のキングオブコントの会でも、表現しているものの深みがものすごかったう大作コント。今回はほぼサイコスリラーの域に達していた。コントをはみ出しかけている。
崩壊しかけている家族を再生するために、宗教に縋る男。その家族の前で教祖に全ての言動、存在を否定・罵倒され、多額のお金を払ったうえで、儀式をさせられる。
絵面の滑稽さでギリギリ繋ぎ止められているが、描かれているその光景はあまりにも、哀しく、悲惨極まりない。しかしそれは滑稽な光景として見せられているというのも事実だし、また儀式を行う本人にとっては全く真剣であろう。どの場所からどのように見るかによってその景色は全く異なって見える。
う大はそれらの視点やそこから見えるものを全て混ぜこぜにする。その行為は、本来「これは面白いことだ」という視点に規定・限定するお笑いのすることからは離れているかもしれない。ただコントをそれが行くことができる限界にまで進めようとしているように見える。そのようなコントが潤沢な資金を使って制作され、地上波のゴールデンタイムに放映されていることに私はただただ興奮と希望を覚える。
亀教なる宗教にその家族がハマってしまうとかではなく、その出来事で本来思ったようにとは捻れた形で平穏無事な家庭に戻ることに成功し、そのままハッピーエンドで終わるのもあの家族が宗教にハマってしまうなんかよりよっぽどリアル、かつ気色が悪くて好きでした。家族の人生の中にあの歪な出来事が埋め込まれるということ。それもう大の様々な感情や視点のスクランブルの実践の一つなのか。

「マッサージ」

東京03しかり、舞台を主戦場とする芸人は、舞台ではできないことが多くあるのが新鮮なのか、それらを多用し結果としてその芸人自身のスタイルとは離れたキャリアの中では実験的な作品が生まれることが、この番組でも多いように思われる。
それぞれ自身の笑いを披露する場が舞台とテレビ(映像媒体)と分かれているので、松本人志(ダウンタウン)の舞台上での笑いと同等の貴重さを持つ設楽作のテレビコントをそろそろ見てみたいと、バナナマンのプレイヤーとしての豊穣さを見るたび思う。松本人志のテレビコントよりもよっぽどお笑い史における資料的価値としては貴重なものになるはずだと思う。

「家族写真」

はじめはまさかの二人コントか、だいぶ挑戦的だなと思ったが、普通に他の芸人も出演していたのだが、それでも構成はテレビでしかできないようなもので、とても挑戦的であるのは変わりない。かたまりともぐらのふたりともが結婚と離別を経験したからこそ、できたコントだろうと述べるのはあまりにも簡単なことだが、少なくとも人と人とのつながりというものの捉え方が変化したと言えるのではないか、コントにこのような作者に関する考察というような批評としては極めて初歩的なものを当て嵌めることができるという点でも、お笑いがあまりに肥大化していることの証左になるのではないかと思う。
またここでも関町と嶋佐が大活躍。嶋佐はどんだけできる役が多いんだ。

「雨の降らない村」

ビスケットブラザーズがどのようなスタイルのお笑いを行うのか、私はまだ規定できない。優勝したキングオブコント2022では猛烈な勢いでもって変態的なバカバカしさを兼ね備えた異常な出来事をぶつけてくるコントをやったかと思えば、芸人が漫才・コント問わず10分ネタを行うという配信番組で彼らはその十分間ほぼほぼ原田だけが舞台上で何もせず座っているというボケを10分平然と続けるというあまりにも奇特なコントを披露したのを目撃したとき、彼らは只者ではないと感じた。ただ面白い、ということを、無差別に貪るようにやらかしてしまう。それがどんなものであれ。そんな芸人の持つ理知的なものからは遠く離れた獣性を彼らからはもっとも感じる。そんな彼らは今回もテレビコントという媒体で「やらかしてしまう」。
雨がふらず日照りが続く村の村民と村長との間に突然起きたディスコミュニケーション。そして彼らが感じ、意思疎通を試みることさえできないような人智を超えた存在がそれをみつめ、文字通り手のひらの上で転がしてゆく。その存在の一方によって村民と村長のディスコミュニケーションの合理的な説明がなされたかと思えば、それはもう片方に「そういうことにしておこうかしらね」とやんわり逸らされる。そしてその存在の片方が涙を流し、それが雨として村に降ったとき、それで大団円かと思っていた。私も理解ができる範疇にあった。その後突然、神や自然、宇宙さえもはねつけ、文字通り蹴り上げる、暴力的とも取れる怒涛の展開が次々と現れていく(私がこの衝撃映像を見たとき、デヴィッド・リンチの映画だと思った。シュールだからとかいう安直な発想ではなく、このコントの終盤の展開なんて『マルホランド・ドライブ』のクライマックスそっくりだ)。ただそれが面白い、という衝動だけでそのような冒涜とも思える行為をためらいなくやらかしてしまう。笑い、そしてそれを起こすためなら何でもする芸人というものの恐ろしさを一番感じたコント。人間の、自らを超え押さえつける存在(それが父母という身近な存在やトラウマや、ひいては世界、自然、宇宙まであらゆるものが当てはまる)への対抗というのが、「芸術」という言葉の自分なりの定義だ。それに基づけば、私はこのコントに芸術性まで感じてしまった。本来お笑い・芸人は人々から見下され、蔑まれなければならないと考えている。人々から尊敬、または畏怖されるようになった瞬間、その芸人やそのお笑いは価値を失う。一見芸術などという高尚なものとはかけ離れている様に思える。しかし本物の芸術も、決して高尚なものではなくそうなのだ。最初は人々に気持ち悪がられ、こんなものはゴミだと蔑まれる。しかし芸術はそれらをはねのけ、シンデレラのように高尚へと駆け上がっていくのだが、そのような芸術のようにが許されず穢として永遠に蔑まれる永遠の受難を背負わされたお笑いがまだ蔑まれたままの芸術と同じ場所で一瞬の邂逅が起き、その瞬間だけ結ばれた。そんなひどくロマンチックな光景がこのコントで見られたような気がした。
この番組が始まると聞いてからぼくが願っていたのは、松本人志がプレイヤーとしてコントに登場するということだった。それがまさか、東京03のようなベテランでもなく、現時点で最新の優勝者である彼らによって、こんな過激な使われ方で実行されるとは。そしてこれをオーラスのコントとして選ぶスタッフには信頼しかない。本当にその采配は正しいと思う。それくらい今回ダントツで素晴らしいコントだった。

おわりに

今回も映像という媒体、しかも膨大な資金や人の力を的確に運用することのできるシステムが構築されているテレビでしかできないことを、芸人が自分の思いついた面白いことを実現するために最大限に活用され、テレビ側も何ら制約もなくそれを叶えてくれるという至福が、我々のもとに届いた。この番組はコント番組として最上級のものだろうし、今年、いや今後何年もの間いかなるコント番組が作られようがこれを超えるものはないでしょう。またお笑いにおけるトップランカーが、東西や芸歴などの壁を取り払い、本当に面白いものを作り上げそれを一緒に見るという、とてもストイックな場でもあります。それは松本人志というまだ生きている神様、つまりキリストのような求道者がいてこそ、成り立っていると思う。
そのようなベテラン勢がいつか退くという意味だけではなく、僕は近いうちお笑いにはダウンタウンが全く変えてしまったように劇的な変化(ダウンタウン体制の死・終焉)が起こると思っている。あまりに偉くなりすぎたダウンタウン以降のお笑いの持つ権威が地に落ちていく瞬間を楽しみにしているが、でももっともっと続いてもほしいなあと思う、そんな番組だった。

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