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少女がアイドルになることは『変身』か

2019年9月に発売された『BUBKA』11月号に掲載されていた、4期生メンバー・掛橋沙耶香ちゃんのソロインタビューがとても良い内容だった。

乃木坂46に加入する以前の岡山に住んでいた頃の自分と、乃木坂46に加入してからの自分を語っており、彼女にもたらされた変化や、変わった彼女自身のことがわかる、まさに「一人の少女がアイドルになったこと」「それによる変化」を切り取った、とても良いインタビューであった。

その解答も、「自分についてこうだと思う」という分析がしっかりしていたり、元来の賢さが端々から感じられた。

かつ、そこまで率直に教えてくれるんだ、というところまで自ら踏み込んでいて、それも彼女自身が「自分は変わった」と思えているからこそ。掛橋ちゃんのパーソナリティが伝わる深いインタビューであったように思う。

じゃあそれを読んでみようじゃないか、と思う人もいるだろうが、スミマセン、かれこれ4ヶ月前の雑誌の話なんです。よほどじゃない限り、書店には置いていないかと思われます。

代わりと言ってはなんだが、BUBKA Webにて公開されている当インタビュー冒頭部へのリンクを掲載する。

また本誌内、グッときた箇所をいくつか引用しよう(以降でも必要に応じて随時引用する)。

――では、性格を自己分析すると?
掛橋 みんなのイメージとは真逆だと思っています。中学とかでは友達も少なくて、あんまり目立ちたくないと思っていました。でも、乃木坂46に入ってから性格が変わってきて。

――アイドルになれた喜びと、人生が変わる喜び、どちらが大きいですか?
掛橋 そう言われると、人生が変わることのほうが大きいです。みんなが思う私と本当の私が違うっていうことに戸惑っていたんです。でも、自覚していないだけで、実際は変われているのかなって思います。

――かなり正直に答えてくれたと思いますが、本当の自分をファンの人が知ることは怖くありませんか?
掛橋 むしろ知らせたいんです。楽しいことだけじゃなくて、いろいろなことがあって、今の私がいるんだよっていうことをそのまま知ってほしいです。

(以上、『BUBKA』2019年11月号 P17-P18から引用)

Amazonにもまだ在庫があるようなのでそちらへのリンクも貼ろう。「あしゅみな」の資料としても大変有用な一冊です。

さて、このインタビューが大変良かったのは上記の通りだが、これを読んでふと思ったことがある。それはタイトルにも書いた「少女がアイドルになることは『変身』か」ということだ。

常々、アイドルという存在がいわゆる変身ヒーローと近しいものを持っているように感じていた。

普通の学生だった子が、綺麗なメイクを施され、綺麗な衣装を着てステージに立ち、ライトを全身に浴びながら歌を歌いダンスを踊り、テレビに出演してそれが全国で放送され、雑誌にも載って、ランウェイも歩いて、異性同性問わずその憧れを一手に受け、という立場や環境の変化はまさしく『変身』と言って過言ではないが、今回はそういうことではなく

ももクロが戦隊モノ的な要素を取り入れていたことだったり、グループアイドルの文脈においてセーラームーンの存在は外せなかったり、その類似性は一般的にも指摘できうる事だと思うが、そういった演出や構造の話でもなく(その話はまたどこかで)。

言いたいことはつまり「一般人だった普通の女の子」が「ステージに立ちファンの注目を浴びるアイドル」になることが、特撮ヒーローにおいて描かれる『変身』と同義なのではないか、ということだ。

アイドルというものの在り方を語る上で、職業としてとかアイコンとしてとか搾取だの消費だの、言及できる角度は多いのだけど、もっと本質的な部分で『変身』がもたらされているのではないか、という、そういう話がしたい。

※今回、乃木坂46の話を入口に展開したため「女の子」としたが、もちろん男性にも当てはまる話である。ただ、女性アイドルと男性アイドルはそれぞれ在り方が異なるような気もしていて、以降でそれについても言及出来たらしたい。

アイドルになることが変身と同義では、と上で書いたが、ではそもそも『変身』とはなんぞや、という話になる。

なんぞやも何も、こう、ベルトがびぃーんと光って、スーツやらヘルメットやらを全身に纏って、武器を持って、っていうアレでしょう?

と、お思いのことだろうが、決してそうではない。

いや、確かに、ヒーローとしての姿に身を包むことが変身ではあるけど、それだけではない。『変身』とはもっと色々な意味を含んでいるように思うのだ。

今回は『仮面ライダー』、特に個人的にリアルタイムで観てきた『平成ライダーシリーズ』を参考に、自論を語っていきたい。

まずそれを整理した上で、アイドルのそれになぞらえていこうと思う。

上で当然のように使ってしまった『平成ライダーシリーズ』という言葉、そちら方面に明るくない方からしたら慣れない言葉だと思うので、まずそれを簡単に説明しつつ話を進めよう。

仮面ライダーシリーズは、おおまかに『昭和』シリーズと『平成』シリーズに分けられる。

ざっくり、藤岡弘氏主演の第一作『仮面ライダー』から続くシリーズが『昭和』、オダギリジョー氏主演の『仮面ライダークウガ』から続くシリーズが『平成』と認識して問題ない。

倉田てつを氏主演の『仮面ライダーBLACK RX』(~88年)を最後にテレビシリーズは一旦終了し、約10年の空白の期間を経た西暦2000年、上記の『クウガ』でシリーズが復活した。

その区切りのタイミングの前後を、それぞれ『昭和』『平成』と便宜上区別して呼ばれていたものが広く浸透し、今に至る。

そんな『仮面ライダー』シリーズ、『昭和』『平成』間で設定面において大きな違いが一つある。

それは「改造人間であるか否か」である。

第一作『仮面ライダー』を始め『昭和』のライダーたちはそのほとんどが、頭脳・肉体ともに優秀な青年がその肉体を仮面ライダーに改造される手術を受け(受けさせられ)、得てしまったその力を正義のために振るう。

仮面ライダーの力は”傷”としてその肉体に刻まれ、普通の人間には戻れない、一つの宿命として仮面ライダーであることを背負ってきた。

対して『平成』は普通の人間ばかりだ。ベルトが単体の「変身アイテム」であり、それを外付けの力として利用し変身を行使するケースが多い。その経緯も「たまたま巻き込まれて」「偶然手に入れて」「空飛ぶ右手に指示されて」など、「ひょんなことから」仮面ライダーに変身するパターンがままあるほどだ。

かつ、『平成』は主人公でない登場人物が仮面ライダーに変身することもシリーズが進むにつれ増えていく。ベルトが単体の「変身アイテム」であることも相まって、仮面ライダーの力が「誰でも扱えるもの」として描かれる。そしてそれ故に、”悪のライダー”もまた増えていく。

そう、ここが重要なポイントである。つまり「悪のライダーがいる」ということだ。これは言い換えれば「仮面ライダーの力を悪用する者がいる」ということである。

『平成』は、決して「仮面ライダー=絶対的正義」ではないのだ。取り回しやすくなったその力は、扱う人間によって善にも悪にもなる。これは明らかに、意図してそのように描かれている。

だからこそ、『変身』とは単に仮面ライダーのスーツを纏う事ではない。その者が本質的に正義のヒーローに成ること、それこそが真の『変身』であると『平成』シリーズでは示されているように思う。

※以下、平成仮面ライダーシリーズ各作品のネタバレ要素を多く含むので注意。

いつになったら乃木坂の話になるんだ、仮面ライダーの話がしたいだけなんじゃないか、と既にお思いのことであろうが、そうです。もう少し待ってほしい。一旦その蹴りを入れる足を止めてほしい。まず『変身』の定義を共有しなければならない。

例えば、上でも名前を挙げた『仮面ライダークウガ』での描写は代表的だ。

『クウガ』第1話のサブタイトルは「復活」、そして第2話は「変身」である。

この二話である。『クウガ』は、『平成』第一作にして、この放送回第1話・第2話で『変身』とはなんぞや、という問いに一つの解を示している。

ではその内容をさらってみよう。

クウガという仮面ライダーは、古代遺跡から発掘された秘石(が埋め込まれたベルト)を身に着けた、五代ごだい雄介ゆうすけという青年が変身する。

彼は、研究員である友人に同行したために、怪人※設定上の呼称=グロンギが警察を襲撃する場に居合わせることになり、咄嗟にベルトを身に着けてクウガに変身、無差別に人を襲うグロンギに立ち向かう。

しかし、初めて変身したその姿は、角は短く体も白く、不完全な状態であった。その場では怪人を追い払う事が精一杯で、倒しきるまでには至っていない。ここまでが第1話。

そして第2話、五代は初変身した場で出会った刑事・一条いちじょうに「あくまで君は民間人」「これは警察官の仕事だ」「中途半端に関わるな」と強く諭される。

ベルトの力を十分に引き出せなかったことも含め、自身の気持ちが半端であったことを自覚し、迷いを見せる五代。

しかしその夜、怪人の手によって家族を失った少女が悲しみのあまり涙を流す姿を目の当たりにし、彼はその拳を固く握る。

その後、一条が単身グロンギと交戦する場に五代は駆け付ける。「何しに来た」と一度は突き放されるも、彼は次の台詞を口にし、本来の赤い姿への変身を成し遂げる。

戦います、俺!
こんな奴らのために、これ以上誰かの涙は見たくない!
みんなに笑顔でいてほしいんです!
だから見てて下さい!
俺の、 変身!

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……といった具合である。ベルトを身に着けるだけでは真の変身には至らず、五代雄介が、一体何のために戦うのか、自分がどうしたいのか(その力をどう使うのか)、そういった"意志"を確かにしたことで遂に変身に成功した。

つまりは、単なる身体の変容(スーツの装着)ではなく、その戦いに向かう決意に至ったことこそが、五代の成した『変身』として描かれている。

「誰かの笑顔を守る」という意志を得たこと、それを表す言葉が彼にとっての『変身』であるのだ。

『変身』とはなんぞや、という問いに対する解の一つとして、これほどのものはないだろう。

ありがたいことに、東映公式がYoutubeに1話、2話を無料配信してくれているので、是非見てみていただきたい(ついでに言うと、他の平成シリーズも同様に公開されている)。

では他の作品も見てみよう。

ここで取り上げたいのは2013年放送の『仮面ライダー鎧武ガイムである。『魔法少女☆まどかマギカ』でおなじみの虚淵うろぶちげん氏による脚本作品であり、そっち方面で作品名を耳にしたこともあるだろう。

おいおい、まだ仮面ライダーの話をするのか、もういい加減止めろよ、とお思いの方もいることだろうが、まだ止めません。どうかすれ違いざまに肩パンしないでほしい。ここでする話も非常に重要なのだ。

まず引用したい作中の台詞がある。それは第1話でのものだ。

『鎧武』の物語冒頭、二十歳になったばかりの主人公・葛葉かずらば紘汰こうたは所属していたダンスチームを抜け、アルバイトに明け暮れている。家賃や食費を自分で稼ぎ(曰く「自分で自分の面倒を見られる」)、親代わりだった姉にこれ以上迷惑をかけないようにと、「一人前の大人」になる事を求めていた。

しかし彼は、自分は他の大事なことをほったらかしにして、理想としている「大人」になれていないと悩み、以下のように零す。

俺、「変身」したいんだ。
もっと強くて、なんでもできる自分に。

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彼の言う「大人」、自分のことも他の大事なこともまとめて面倒を見ることが出来る、そんな理想の自分になることを望む言葉である。

もう一つ台詞を引用しよう。最終回一つ前の放送回、第46話で発せられた台詞である。

ミッチに伝えてほしい。
どんな過去を背負っていようと、新しい道を探して、先に進む事が出来るって。
諦めないでほしいんだ。人は変わることが出来る。
俺みたいな奴でさえ、違った自分になれたんだ。
「変身」だよ!貴虎。
今の自分が許せないなら、新しい自分に変わればいい。

これは、紘汰が、登場人物の一人・呉島くれしま貴虎たかとらと交わした最後の対話での言葉。ミッチとは、貴虎の弟・呉島光実みつざねのことを指す愛称である。

ミッチは、当初は紘汰を慕い、仲間として行動を共にしていたが、自分の目的のために数々の策略を講じ、裏切りに走り、次第に紘汰や仲間たちと対立していった。

その後、すべての戦いが終わったのち、紘汰はそんな彼のことをも救おうと、兄である貴虎に上記の言葉を託すのである。

そう、「仮面ライダーの姿になる」という意味を全く含まない形で、第1話と最終回直前において『変身』という言葉を主人公が用いているのだ。

ここに『変身』の真の意味が潜んでいるように思う。

『鎧武』において、紘汰が得た仮面ライダーの力は、当初は子どもたちの間で流行っている対戦ゲームの延長でしかなかった。それが中盤、文字通り世界の存亡を左右する事態にかかわっていることが発覚し、彼自身もその当事者として選択が迫られるようになる。

世界を滅ぼす力を持つ未知の植物※作中の呼称=ヘルヘイムの浸食が、紘汰たちの住む街をはじめとして徐々に広がりつつあり(それを知る「大人」たちはその事実を隠蔽しており)、そのタイムリミットも差し迫っているのだった。「大人」たちは、今の技術で行き届く限界、全人口の7分の1のみを救い、人類絶滅を防ぐと言う。

紘汰は、自分たちが「何も知らない子ども」でしかなかったことを痛感する。そして、情報を操作し救う人類を選別しようとする「大人」たちや、地球を掌握しようと暗躍するヘルヘイムの住人※作中の呼称=オーバーロードに怒り、立ち向かう。

彼は、理屈をぶっ飛ばした感情論だけで拳を振るうこともあれば、自らを犠牲にしてでも大切なものを守るために戦うこともあった。考えなしの無鉄砲な行動を取っていた未熟な彼は、状況に翻弄されながらも、次第に成長し、その意志を確立していく。

物語終盤、紘汰は強くなるためにヘルヘイムの力を手にし、それを行使し続けた結果、ヘルヘイムの住人と同じ肉体へと変貌してしまう。しかし彼は誰かのために戦うことを止めなかった。

そうして人知を超えた存在となった紘汰は、世界に広がるその植物や住人ごと、(同じく超常の力を得た)ヒロイン・まいと共に宇宙の果ての星へと移り住む決断をする。自らを犠牲にして仲間達の生きる地球を浸食から救い、またその星で一から世界を作り出すことを選ぶのだ。

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上記の貴虎との対話は、既に人間ではなくなった紘汰との間で交わされたものだ。

迷いから脱しきれない青年であった紘汰が、最終的に人類を救うための自己犠牲に身を賭す(奇しくも、『まどかマギカ』によく似た顛末を迎えている)。

そんな彼が自らを引き合いに発した『変身』という言葉、それがいかに説得力のあるものか。これを『変身』とはなんぞや、という問いへの解の一つとして挙げたい。

(以下、『鎧武』の第1話と第2話。)


続いては、2002年放送の『仮面ライダー龍騎りゅうきについて見ていこう。まだ仮面ライダーの話を続けます。あっ、その体操着入れを返してほしい。投げないでほしい。ここでは少し違った角度の話をしたいのだ。それも重要な要素の一つなのである。

ここからは『変身』における別の角度として、「仮面ライダーになりながらも”変わらない”こと」について書いていこう。

そのためにはまず『仮面ライダー龍騎』という作品について伝えなければならない。上に貼ったAmazon視聴ページの概要を引用する。これは『龍騎』の端的な説明となっている。

ジャーナリストの卵・城戸真司は偶然手に入れたカードデッキにより、鏡の世界・ミラーワールドに取り込まれてしまう。彼は人々をモンスターから守るため、ドラグレッダーと契約。仮面ライダー龍騎となる。だが、仮面ライダーになった者に課せられたのは、モンスターとの戦いだけではなく、仮面ライダー同士が最後のひとりになるまで戦うことであった。

いや、だいぶ言葉が足りていないな。補足の説明をしていこう。

「カードデッキ」とは作中の変身アイテムを指す。『龍騎』では、それを用いて仮面ライダーに変身したり、鏡の世界への出入りが可能になったり、その世界に潜む怪物・ミラーモンスターと契約できたりする。

『龍騎』における仮面ライダーは、モンスターと契約して、力を借りなければならない。『ポケットモンスター』で最初に三匹から一匹を選ぶように、モンスターと契約することで、はじめて戦う力を得るのだ。

そしてミラーモンスターは、仮面ライダーに力を貸す存在でもあれば、人間を襲う存在でもある。

巷で発生していた失踪事件が、モンスターに”喰われていた”のだと城戸きど真司しんじは突き止める。正義感の強い真司は、自身が仮面ライダーとなって、モンスターから人を守るために戦うことを決意する。

しかし、その仮面ライダーの力は、”仮面ライダー同士の殺し合い”のために作られたものであった。

13人の仮面ライダーが互いに争い、最後の一人になった者はどんな願いでも叶えられると言う。そのために皆、命がけのバトルロワイアルに身を投じているのだった。

正義感の強い真司は、そんな殺し合いに参加することも、見て見ぬふりをすることも出来ない。彼はライダー同士の交戦に首を突っ込んでは「こんなことは止めろ!」と訴える。「戦いを止めたい」という想いでひた走るのだ。

だが、誰も真司の言葉に耳を貸さない。ある者は恋人の命を救うため、ある者は自身の病を治すため、願いを叶えるには手段を選んでいられないのだ。

さらには、仮面ライダーの力そのもの、あるいは戦いそのものを目的としている者もいる。

汚職に手を染め殺人まで犯す悪徳刑事、戦いをゲームとしか思っていないドラ息子、連続殺人犯の脱獄囚、小銭稼ぎのために他のライダーに取り入るフリーター。

このどれもが仮面ライダーなのである。『龍騎』こそが「仮面ライダー=絶対的正義」ではない、という価値観を打ち出したのだ。

その力は使う者次第で如何様にもなる。そもそも仮面ライダー同士が戦う時点で、誰が正義で悪で、という構図は破綻しているのだ。

故に、真司の姿が輝いて見える。「戦いを止めるために首を突っ込む」とは、結局「自分も命がけの戦いに身を投じる」ということだ。それでも殺し合いなんて止めさせたい。もちろんモンスターに襲われる人のことだって見過ごせない。

だから彼は仮面ライダーとして戦う。『鎧武』の紘汰のように、真司もまた誰かのための自己犠牲を厭わないのだ。

そして物語終盤、真司は叶えたい願いを見つけたと言う。それは「戦いを止めたい」ということ。仮面ライダー同士の戦いを通して叶えたい願いがそれだと言うのだ。

俺さ、昨日からずっと考えてて、それでもわかんなくて。
でも、さっき思った。
やっぱりミラーワールドなんか閉じて、戦いを止めたいって。
きっとすげぇ辛い思いしたり、させたりすると思うけど、それでも止めたい。
それが正しいかどうかじゃなくて、俺のライダーの一人として叶えたい願いが、それなんだ。

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つまり、城戸真司は最初から全く「変わらない」のである。最初に生まれた行動原理が、最後に辿り着く願いとイコールで結ばれている。

様々な思惑が交錯する戦いの中にいても、無残に命を落とす者の姿を何度見ても、真司が胸に抱く信念ははじめから一緒だった。それも自分のエゴだと知りながら、彼はその意志を貫き通す。

これもまた『変身』の一つの解だ。見てくれが変わっても、環境や立場が変わっても、「変わらない」ものがある。「変わってはならない」ものがある。城戸真司の姿を通して、『龍騎』はそんなメッセージを発しているように思う。

過酷な世界に身を置き、辛い経験をすると、人は変わってしまうかもしれない。でも、そうじゃないかもしれない。『龍騎』を観ると、そう思えるのだ。

(以下、『龍騎』の第1話と第2話。)

以上、平成ライダーシリーズより3作品取り上げ、これが『変身』の示すところではないか、という仮定をいくつか提示してみた。

ここまでで整理した『変身』を前提に、これからやっと本題の「乃木坂46」「アイドル」の話をしていきたいと思う。だから許してほしい。どこに上履きを隠したのか教えてほしい。

というわけで、掛橋沙耶香ちゃんの話に戻ろう(下にもう一度BUBKA Webへのリンクを貼る)。「アイドルになった少女」の代表として彼女は実にふさわしい存在なのだ。インタビューを引用しながら進めていく。

(以下、『BUBKA』2019年11月号 P17-P18から引用する)

彼女が乃木坂46・4期生のオーディションを受けた理由の一つとして「変わりたい」という想いがあったと言う。

――人生を変えたかった?
掛橋 これによって変えたいというのはなかったけど、変わりたいとは思っていました。中3の時はほとんど保健室にいたんです

中学生の頃の掛橋は、本人曰く「先生や家族に心配されていました」と言うほど、ネガティブで、クラスでも浮いており、そんな自分が嫌いだったそうだ。

――教室に行けなかったんですね。
掛橋 周りの目が怖かったです。人と話すのが苦手で。見た目も今とは全然違ったので。髪型も黒髪でショートカットだったんですけど、めっちゃ短い、男の子みたいな感じで。首の後ろだけめっちゃ長いっていう

そんな彼女は乃木坂46の一員としてアイドルになった。「変わりたい」という想いを抱いていた彼女は、その『変身』への期待に胸を膨らませ、そして実際に変わることが出来たと話す。

――クラスでも浮いていた人が乃木坂46というグループに入って、いかがですか?
掛橋 やっと変われるなと思いました。入ることによって、私も楽しくなれるなという期待感でいっぱいでした。実際に、180度変わったと思います。よく笑うようになって。

また、同期メンバーがシングル表題曲のフロントに立ったことを受けて、まだ自身に変化を求めているのだと零す。珍しく考える様子を見せており、現時点の「変わった」自分を正確に捉えた上で答えている。今の自分は、まだそうは言えない人だと思っているようだ。

――いつか自分がフロントに立ちたいという願望はありますか?
掛橋 うーん、そうだなぁ。立ちたいって言えるような人になりたいです。

ここまで引用した内容からも分かると思うが、掛橋ちゃんは「自分がアイドルになったこと」について話していながら、彼女が口にするのは、「その職業に就いた」という事でもなければ、メンバーの事でもなければ、ライブだったり舞台だったりテレビだったりに出演する時の事でもない。

(もちろん、そちらに意識が向いていないだの、メンバーのことを気にしていないだの、そんな的外れな指摘をしているつもりは毛頭ない。)

彼女は、乃木坂46のメンバーになったことによる立場や環境の変化よりも、もっと本質的な、彼女自身にもたらされた変化について語っている。

冒頭でも取り上げた以下の回答は、まさに「アイドルになったこと」以上に、自分自身の変化そのものが大きいと話している。またそれは、自覚しているそれを超えているのでは、と感じているそうだ。

――アイドルになれた喜びと、人生が変わる喜び、どちらが大きいですか?
掛橋 そう言われると、人生が変わることのほうが大きいです。みんなが思う私と本当の私が違うっていうことに戸惑っていたんです。でも、自覚していないだけで、実際は変われているのかなって思います。

それこそが『変身』だ。貴虎、彼女が語るのはまさに「新しい自分」じゃないか。乃木坂46というアイドルになり、彼女は『変身』したのだ。

掛橋は自分の『変身』の理由を、以下のように語っている。

私はファンの方のおかげでポジティブになったんです。(中略)ファンの方の温かい言葉で、すごく元気になれるんです。自分が変われた一番の要因は、それです。

アイドルになって得たもの=ファンの存在が、彼女に『変身』をもたらしたと言う。単に肩書きが付いただけではなく、その存在があるからこそ「自分は変われた」。そんな風に彼女は感謝の想いを表すのだ。

”誰か”の存在が『変身』のためのファクターであることもまた、ここまで繰り返し取り上げたことである。

この先、今の「ポジティブ」だけでは敵わない壁に当たることもあるだろう。筋違いな言葉を聞くこともあるだろう。でも、きっと大丈夫。

なぜなら彼女は『変身』した。そして『変身』することができるからだ。

思えば、「変わりたい」と言う言葉は、実際に口にしたにせよ、しないにせよ、乃木坂46のメンバーが何度も語った言葉である(とりわけ印象に強いのは、卒業生・橋本奈々未さんの『16人のプリンシパル』映像中の発言だろうか)。

今回引用したBUBKAのインタビュー中に以下のようなやり取りがあった。

(掛橋沙耶香ちゃんが中学3年生の頃ほとんど保健室にいた、という話を受けて)
――白石麻衣さんもそうだったみたいですね。
掛橋 知っています。意外って思いました。

「写真集女王」とも呼ばれ、今や世間の”美”のアイコンたる存在の白石麻衣ちゃんも、乃木坂46のメンバーになって『変身』した一人であるように思う。

ここで、2015年に出版された、週刊プレイボーイでの連載をまとめたドキュメンタリー本『乃木坂46物語』を開いてみる。

この本の第1章は『乃木坂46を目指した理由』と題され、乃木坂46のメンバーたちが「乃木坂46」に至る以前、故郷での暮らしぶりやオーディションを受けるきっかけなど、その”前夜”が記されている。

白石については、以下のように綴られている。

(以下、『乃木坂46物語』P21-P23より引用する)

白石麻衣は、故郷にあまりいい思い出がない、と語る。彼女の出身は群馬県。しかし、それを口にすることは、ほぼない。

中学時代。
彼女は学校で同級生に”意地悪”をされていたという。それが原因で、不登校になった。

これは、2015年公開のドキュメンタリー映画『悲しみの忘れ方 Documentary of 乃木坂46』をはじめ、本人の口からも各所でたびたび語られたことだ。こうした彼女の過去について、既にご存知の方も多いだろう。

そんな彼女は進学を機に埼玉に移住し、高校卒業後は音楽の専門学校に入学する。そこでレッスンを受けたり、理論を学んだりする日々を過ごす中、担任教諭に乃木坂46のオーディションを勧められる。

担任の先生から『今度、こんなオーディションがあるんだよ。受けてみたら?』ってけっこう強く勧められたんです。正直……そのときはアイドルに興味はなかったんです。でも、『そこまで言うなら、受けてみようか』って、友達4人で受けたんですよね。

白石はこのように語る。「アイドルに興味はなかった」という発言が印象的だ。それに対する憧れを持っていたわけでもなく、彼女はこの道に進んだのだ。第1章の白石の項は、以下のように締めくくられる。

しかし、当時の彼女はアイドルになる気もなく乃木坂へやって来た、故郷を捨てた19歳の少女だった。

それでも彼女は乃木坂46の一員となった。いち早くファッション誌の専属モデルに抜擢され、シングル表題曲のセンターを二度、Wセンターも含めれば計四度務めた、紛れもなくグループの顔であり、エースである。

高校の頃は保育士を目指していたとも白石は語る。かつては”この世界”とは縁のない夢を抱いていた彼女は、まさに『変身』したと言えるのではないか。

もちろんそれは、「芸能人として上り詰めました」的な話だけで成り立つものではない。彼女が乃木坂46として出会った仲間の存在もまた大きいはずだ。

こんなとか。

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こんなとか。

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こんなとかこんなとか。

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人と出会い、かかわり、触れ合い、それを通して得るものや与えるものは大いにあるはずだ。”誰か”の存在の大切さは上でも書いたことであり、それは仮面ライダーたちがその姿をして語ってきたことである。

それはまた変化を生む。その変化も、彼女たちにもたらされた『変身』であると言えるだろう。

人に傷つけられた経験のある白石も、人から受け取り、与える事をしてきた。それは今回の卒業発表を受けて、メンバーや後輩たちが綴った言葉からも読み取ることが出来る。白石麻衣は、”あの頃”から、既に『変身』を遂げているのだ。

まとめ

以上、よさめな感じに行き着いたのでここで筆を置かせていただく。本当に、長くなって申し訳ない。

今回は掛橋沙耶香ちゃん、白石麻衣ちゃんのみ名前を挙げたが、乃木坂46のメンバーたちは皆『変身』を成していると思う。それこそ『乃木坂46物語』を読めば一目瞭然だ。だからこそ惹かれるのだ。

また、「変わらない」姿を示すメンバーもいる。普通に大学を出て、普通に就職しようとしていたところ、偶然をきっかけにオーディションを受け乃木坂46に加入、ラジオという居場所を見つけ、今やグループにとって欠かせない存在になった。そんなシンデレラストーリーを歩んでいながら、元々持ち合わせていた「ふつうのひと」の感覚を忘れない。そんな彼女の『変身』も魅力的である。

そうした存在に”救われる”側の一員として、『変身』した彼女たちに万感の祝福を捧げたい。今回のnoteはそんなつもりで書いたものである……と、いうのは後付である。

以上。

明日飲むコーヒーを少し良いやつにしたい。良かったら↓。